上海で日本語を話している中国の若者達

中国人に囲まれて日本語で通していく日常の出来事を書き綴っています。

GREEから転載の日記「社長に食って掛るのは大人気ないよね。」

2007年01月20日 | 日記
NHKの朝のニュースはもちろん全国放送で、短時間の特集だったけど、冒頭でいきなり名前を呼ばれたところから始まった。
正直編集で切られるんじゃないかと思っていたので嬉しかったので、CANNACで作った画像素材は家宝にしている。
さて、何故か隔週土曜日は経営会議で役員達に混じって喧々諤々、ISOの推進と事業部の営業報告を半年ほどしていたが、
ある日、片山社長と事業部人事の件で真っ向対決することになってしまった。
(以前片山社長隷下の事業部一つを業績不振を突いて解散に追い込んでから何かと衝突していた。)
折悪しく佐藤会長も代田役員も日本にいない。

結局、長期休暇を頂いて奥塩原の温泉に旅行に行った。

露天風呂に家人と浸かりながら、「やっぱり只の課長が社長と遣り合うのは無謀だったかな?」とも思ったが、いい機会なので、事業部長を出汁に使って、スッパリ辞表を出してCANNACを辞めた。(またしてもストックオプションを返上した。)

さて、CANNAC入社前に予定した通り、プランと人脈は出来た。
(上海でオフショア用人材センターを立ち上げることにした。)
早速上海に戻り、2ケ月の準備期間を経て、再度日本に帰国した。
次は日本側のパートナーが必要だった。

ここで、また最良のパートナーと出会うことになろうとは、神なるぬ身の私に予想することは出来なかった。
2005年の春だった。

やっと上海帰国

2007年01月20日 | 日記
1週間ぶりに上海に帰宅した。
今回の出張はほぼ任務を完了したので少し安心。

今回感じたのは、ほんの少しの間なんだけど、日本を離れていると街が変わっている。
事務所から歩いて5分の秋葉原の駅前が、また少し発展していた。
(ラジオデパート無くなってしまうんだね。)
駅前に立つと、20年以上前、恩師の加々良先生とシネコーダーのアンプ用真空管を買出しに行ったのを思い出す。
モデム屋、フィギュア屋として、この街が変わって行くのに、ほんの少しでも係った身としては複雑な心境。

今の上海もどんどん変わっているけど、うちの社員達も、帰国したら同じ面持ちで上海の街に立つのだろうか。