上海で日本語を話している中国の若者達

中国人に囲まれて日本語で通していく日常の出来事を書き綴っています。

GREEから転載の日記「若者たちの会社」

2007年01月23日 | 日記
営業課長34歳、東京事業所長34歳、担当取締役(代表)34歳。最高齢の私と同じ41歳は僅かに3人。最若年者は19歳が2人。
平均年齢29.4歳。これが70名のエキスパートギグ社の構成年齢だ。
またまた、職安で求人票を見つけ、早速応募した。

営業課長(当時は課長呼称すら無かった)の林氏と面接した私は、「社長に会いたい」と要求。
翌週に代表の田野氏と会った第一印象は「若い!」の一語に尽きる。

田野氏は12歳からプログラムを書いて、今は本まで出している生粋のソフトウェアエンジニア。
エキスパートギグ社は渡辺製作所の100%出資子会社で、田野氏は渡辺製作所創業者の孫にして渡辺製作所現社長の甥で元日本オラクル社の社員。
渡辺製作所は日産・カルソニックカンセイから役員を受け入れている日産パートナー企業で戦後間も無く創業の老舗自動車部品メーカーだ。国内5工場、海外1工場を有している。
元々ソフトウェアエンジニア志向の田野氏が10年前に家業の自動車部品メーカーに戻ってから、電算部門を一部独立させてエキスパートギグ社は設立された。
管理部門はスリム化されており、社内の大部分がコンピュータエンジニアで構成されている。
(何と営業課長も経理担当者もエンジニア。営業職4名だけが非エンジニアだ。)
そして、数年前からオフショア開発を志向して準備をしていた。

何というタイミングの良さ。

早速、条件交渉をしたところあっさりOKしてもらった。
こちらの条件は2つ。
1.ISO9001-2000をすぐに取得すること。
2.在職中の他社創業を認め、更に1年間で退職することを了承すること。
代わりに、私がISO推進担当として指揮を執り、ISO取得にはコンサルタントを頼まず、審査費用のみの負担で1年で取得する事を約束した。(コンサルタント費は200~300万かかる。)
もちろん採用はOKで、2005年6月付けで入社した。
入社翌月にはISO取得体制に即した社内の組織変更と規程運用、経営会議の開催も実施した。
(全てはCANNACでの作業を再現する事で実現出来たので、エキスパートギグ社は無事2006年末に.ISO9001-2000の認証を取得する事が出来た。)
2005年秋、私は約束通り、上海にソフトハウスを設立した。

不惑って本当に不惑?

2007年01月23日 | 仕事
昨日、日本帰りの庄君からサラリーに不満があるので,
大幅増額(倍増)しないと辞めると申し出があった。
日系企業の採用平均給与実績を示して、
今も大幅に上回っている雇用条件だと説明しても、頑として聞かない。

最近、他から雑音も入ったみたいだし、私が日本から戻ったら切り出すのは予想済み。

金額に強く拘っているが、まあ、生粋の上海人だから当然と言えば当然で、
逆に23歳とは思えないほどしっかりと交渉して来た。
自分が23歳の時はまだ学生で、映画以外の事は迷ってばかりだったなぁ。

昨日だって、
本当に「齢四十にして惑わず」を過ぎているのかと思うぐらいに、
彼を引き留めるべきか迷っていたし。

でも、決めました。
彼の今のプロジェクトが終わる3月末に暖かく彼を送り出してあげよう。
大きく羽ばたいておくれ。

会社としては、彼が健康を理由に帰国するまでの約半年、
日本に送って掛けた経費が無駄になるけど、
一人のエンジニアのヒヨコを育てることは出来た様だから。

でも、他のメンバーは一緒に引き抜かないでね。
・・・やっぱり一言、釘を挿そう。