上海で日本語を話している中国の若者達

中国人に囲まれて日本語で通していく日常の出来事を書き綴っています。

韓林焼烤でした

2007年01月04日 | 生活
去年から長風公園にある焼肉屋は美味しいと思っていたら、
無錫などにもチェーン店を展開している韓林焼烤でした。
店員の教育と価格サービスが本当にイイ!
昨日は普陀区店に行きましたが、此処はお店も豪華で
美人の店員さんがチマチョゴリを着てました。
やっぱり、其々の民族の誇る料理は手を抜かないのかな?

さて、我が日本は最近偽日本料理店が話題でしたが、
偽日本料理店の生魚はやっぱり食べたくないです。
早く本物の回転寿司屋が本格進出してこないだろうか・・・

何故、こんな話かって?
それは韓林焼烤のメニューに刺身と寿司が載ってたからです。

GREEから転載の日記「初めて大企業に勤める日」

2007年01月04日 | 日記
最初に面接をした時、課長と名乗った男性の物腰は紳士(まさしくジェントルマン)だった。
他の内定は全部断り、二つ返事でここに決めた。

初出勤日、役員面接で会った役員や部長では無く、最初の面接で会った課長がほぼ実務の全権を握っていることに驚いた。
その後、あまり日を置かず課長は部長になり名実共にコンピュータ販売部を掌握した。
それが現YRLの八木役員だった。
明朗快活、決断力行動力も桁外れに大きく、経営トップの方以外で部門責任者として八木さん以上の方に職場で会ったのは唯一カナックの代田役員を置いて他にはいない。
それ程、理想的な上司だった。
私は現在まで管理職を務める時は常にこの御二人の背中を追いかけて来た様に思う。
(ちなみに御二人とも沖縄に縁が深く、私が18歳で最初に一人旅をしたのも沖縄だったりする。)

当時のYRLは新宿野村ビルの25階にあった。
高校時代に撮影に来た場所でもあったので縁があるのだろう。
(避難訓練に新人として駆出されたことがあるが、25階から階段で地上まで降りるのは本当にいい運動になります。)
曇った日は地上が雲の下になって見えず、天界にいるような感じのするオフィスだった。
1年間雪隠詰めにされていたマイクロコアの事務所とは全く違い、スチールキャビネットの整然と並んだ以前に訪問した三菱商事そっくりなオフィス。
業務連絡はボイスメールとグループウェアをフルに活用していた。(社内インフラの管理担当チームも存在していた。)
営業全員にはHP200LXとノートPCが支給された。休憩用のオープンスペースには冷蔵庫があり、何故かいつも冷えたビールが入っていた。
何から何まで30名規模のマイクロコアや映像製作現場とは天と地との隔たりを感じた。
(つまり居心地が悪かった。)

前年ISO9000を取得したばかりのYRL(横河レンタ・リース)は、芙蓉相互リース(富士銀行子会社)と横河電機の合弁会社で、日本ヒューレット・パッカード(旧横河ヒューレット・パッカード)の兄弟会社にあたり、国内YHPマスタリセラー3社の内の1社だった。

何故、全く縁故の無い私が資本金130億円の堂々たる大企業に採用されたのかは、実は今も大きな謎であるが、ある日採用判断した本人からこう言われた事がある。
「お前は本当にいいタイミングでこの会社に入った。」
この言葉の裏には、私の学歴は採用基準を満たしていなかったのだろうことは容易に想像できた。(何といっても大学は中退で最終学歴は映画学校卒だからね。)
但し、入社して最初に判った事は、グループ企業以外にシステムを販売した(プレゼンテーションした)実績のある営業がゼロだった事だ。前職の営業経験を買われて特別に採用されたのだろう。

職位は一般執務職上級だとこれも後で知った。
また、当時の横河電機のモットーは辞めたくなるまで辞めずに働いて良い会社だった。
これはHPも同じで、後年企業合併とリストラを繰り返したHPのフォリナー女史は逆に創業一族に切られてしまった。

実に縁故採用の多い会社で(当時は既に300人程度の社員がいた。)、新卒以外で全くの社外からやってきたのは極少数だった上、ほとんどがコンピュータ販売部に所属していた。

当時のコンピュータ販売部の部課長級の多くはHewlett-Packardからの出戻り組か横河電機本体からの出向者で占められていた。
丁度日本ヒューレット・パッカードに社名変更期に、横河ヒューレット・パッカード創設以来、横河から送っていた人員が戻るための事業部という印象も濃かった。
当時社長の秋山社長はYHPの総務経理系の重鎮だったし、八木部長の前任の藤本部長もまたHPからの出戻り組だった。
入社時点で7名だった営業課は、その後社内外各部門からの受け入れも有り、どんどん増員し1年で30名規模になっていった。

先ずは、九州から東海に掛けての各拠点廻りりからスタートして2日で東京まで帰ってきた。
つまり、マイクロコア時代と全く同じく日本全国が担当営業エリアだった。
営業ノルマは月2500万*3ケ月(累計してゆくので常に5000万程度あった)。これは個人に課せられた数字に等しかった。
横河系列と既存顧客は他の3名のプロパー社員(入社2~3年組。このうち)が担当しており、私は全くのゼロからのスタートになった。
向かい席にいた私の1週前に採用された自称元課長氏は、直ぐにノルマを果たせずに居なくなった。

詳しくは書かないが、私も地縁血縁を駆使してノルマをこなしていった。
当然マイクロコア時代の仕事仲間の伝手はフルに活用した。

在職していた13ケ月でHP-UXのワークステーション、サーバー、プリンタ、PC、その他諸々大は1000万規模から小は数万円まであらゆる種類のHP製品を売った。(新しいソリューションには、賞品が設定されていたので賞品狙いもあった。)
また、全国紙での通販広告を企画したり、CA社(コンピュータアソシエート)に買収される直前の、トレンドマイクロ社との提携開拓も担当するなど、様々な業務をこなせたのは、やはり伊東社長の薫陶の賜物だと本当に感謝している。
通販広告を企画した時、お世話になった仕入統括の(松崎しげるそっくりのナイスガイ)高橋本部長こそ、現在のYRLの高橋社長であったりする。

さて、試用期間最後の3ケ月目に入ろうとしたある日、それまでのPSS研修の様に社内実施研修では無く高井戸のHP社トレーニングセンターでのセールスライセンス研修を2週間後に受ける様、八木課長から業務命令された。
翌々日には電話帳ほども有る全編英文の技術テキストが私の元に届けられ、札幌大学中退以来、避けていた英語の勉強をその晩から強要されることになった。
このセールスライセンス研修「SR28021A」が実はHewlett-Packard社内に於いて、管理職登用試験として実施されてきたものであり、
YRLの本採用決定試験も兼ねていた事は、後日HP帰りの部課長達に告げられて知った。
HPマスタリセラー複数社から参加で4日間ぶっ続けで実施され、我々はホテル暮らしだった。
他には東京エレクトロンとオリックスが参加していた。
YRLからの参加者に横河電機本体からの出向課長と横浜等の営業所長(社内の呼称では拠点長)が含まれていた。

研修の内容は割愛するが、無事実力以上を出し、勝ち抜け1位で賞品の腕時計を受け取って研修を終了する事が出来た。

そして半年も経たずに主任に昇進した。
まさか、これが事業部内での人間関係に暗い影を落とすとは微塵も思っていなかった。

ここでも、やはり山と谷が訪れ、私にとっての安住の地では無いと思い知らされた。
が、それでも有る出来事を目にしなければ、多分今日現在もYRLの社員であったかもしれない。
ちなみに、最初の販売課5人の営業マンの内、2~3年生だった2人が現在のコンピュータ販売部の100名からの部下を率いる部長を務めている。

そしてライバルや理想的な上司に囲まれた本当に夢のような1年が経ったある日。

5年来の友人で小さなおもちゃ会社を経営している岡本・蘆田の両氏の会社に挨拶がてらWinNT3.0の特価PCを売り込みに行った。
そこで、信じられない物を目にする事になった。

私は翌月(賞与支給を受けた次の月)にYRLを辞め、即日有限会社レッズの一員になった。

YRLで得た物はプレゼン哲学とWIN-WINの精神(HP-WAY)だった。