上海で日本語を話している中国の若者達

中国人に囲まれて日本語で通していく日常の出来事を書き綴っています。

GREEから転載の日記「サラリーマン、最初の転職」

2007年01月03日 | 日記

松下電器が子会社松下寿を前面に押し立てて市場を開拓に来た。
松下への防衛戦はオムロン、アイワ、マイクロコア3社で各様に行われたが、そのうち玉がこなくなった。

モデムは文字通りMOdulator-DEModulatorの略称であり、意味はアナログーディジタル信号の変復調装置。
今でこそDSP(Digital Signal Processor ディジタル信号処理チップマイコン)上でプログラム設計したコードで信号処理を行っているが、従来はシュエラやロックウェルのFAXモデム用カスタムチップを搭載していた。
通信速度の高速化にと伴うATI-T(現CCITT)国際規格の度々の変更は顧客選択権をチップメーカ-に与えていた。
松下はこの2社のカスタムチップをロットごと買い占めて一気に市場を占有に来た。

本業のファミコンベースの専用端末はJRA-PAT、PISTと順調に台数を伸ばしていったが、その頃、ファミコンの生産が終わりに近づいていた。
任天堂はスーパーファミコンのプロテクトを強化し、周辺機器開発に制約を厳しくしたが、堀江氏達がバックアップ用周辺機器を開発するなど抜け穴はあった。
しかし、コンシューマー市場でのマーケティングダメージを考慮した経営陣はあえて独自形態の専用端末の開発に乗り出した。
液晶画面搭載の携帯型端末を発明したのであった。
最初の大口ユーザーは日本アムウェイ。

そして次に開発したのがキャップフォン。
その発表記事は日経新聞の1面を飾った。
そのずっと後、Lモードが登場するまで、広域ネット用汎用情報端末としては新日本工販(現フォーバル)がディスプレイホンが同様に存在したが、キャップフォンの最も大きな特徴は広域ネット用、つまりキャプテン端末としてのIPフォン機能を搭載していた事にあった。
インタネットバンキングやe-コマースで現在実現していることのほぼ全てのコンテンツを実現できる機能を有していた。
そして、携帯端末版は現在のIーmodo以降の携帯電話が持つ機能をほぼ網羅していた。
実際マイクロコアの開発した製品群は10年先を行っていた。

そして30歳を迎える年、私は初めてサラリーマンとしての転職をする事になった。
私が採用して頂いたのはYRL、横河レンタ・リースの新設されたばかりのコンピュータ販売部(現コンピュータ営業部)であった。
ここで本物の島耕作と出会う事になる。