上海で日本語を話している中国の若者達

中国人に囲まれて日本語で通していく日常の出来事を書き綴っています。

まだ少し、熱っぽいんだよね。

2007年01月12日 | 生活
鳥インフルエンザのニュースがちらほらとネットに載ってきました。
以前、SARS禍の時期に直前まで上海に滞在していた私は、帰国後ビクビクしていましたが、今度はどうなることやら・・・領事館便りでは年少者には帰国を勧めていました。

明後日、浦東空港で見咎められたらどうしよう。

旧正月の大移動に流行が重なると大変なので、収まってほしいものです。

GREEから転載の日記「人生を大きく変えた経営者との2度目の出会い」

2007年01月12日 | 日記

日本に帰った私は取敢えず糊口を凌がなければならないので、職探しに出た。行った先は又しても職安であった。
メディアウェスト設立時に雇用保険には加入していないので、唯求人票を貰い行ったのだが、その混雑振りには驚くばかりだった。
日本がこんなに不景気になっているとは・・・上海から戻ったばかりの私には信じられない光景だった。
求職活動は順調に進み、2社の内定の内、1社が面白い回答をくれた。
曰く最初は「役員が中国から帰ってくるまで待ってくれ・・・1ケ月」。
そして役員面接通過後、「会長が北欧、米国経由で帰ってくるまで待ってくれ・・・1ケ月」。
初回の面接も役員だったが、大変興味深い回答だったので、会長と会うことにして、もう一社はお断りした。
そして、3回目の面接でお会いしたのがカナック(CANNAC)社の佐藤会長だった。
人間はドッペルゲンガーがいて、自分と同じ人物が世界に3人いると言う話を聞いたことがあるが、佐藤会長にお会いした時、伊東社長が部屋に入って来たのかと錯覚するほど印象が似ていた。
容姿が似ているのでは無く、他人に与えるイメージがそっくりな事に話をしていて気が付いた。
その翌々日には採用通知を頂き、私はカナック社ソフトウェア事業部の一員となった。
(実は2回目にお会いした代田役員と会った時点で、正直こちらは入社を熱望していた。)

佐藤会長の経営への情熱とその価値観は、私の経営への意識に大きく影響を与えた。
今も自分の事業を見直す時、佐藤会長の姿が脳裏に浮かぶ。

カナックは日立製作所・NTTデータ等複数の株主で構成されているが現在、日立製作所のグループ会社だけが入居する神田日立ビル内に所在している。
カナック社ソフトウェア事業部の主業務はブリッジSEを介したシステムのオフショア開発であり、構成メンバーの殆どが中国人であった。
若手の3人のPGを除くと、嘱託の大先輩である桜井さんを除けば、30名所帯の事業部に日本人は代田事業部長と私の他にはいなかった。
ソフトウェア事業部は、この時点で既に、中国には数百名のPGを擁する大所帯であり、カナックのグループ全体では3/4が中国人で占められていた。
カナックでの業務内容は守秘義務拘束されているのでこれ以上詳しくは書けないが、営業の他、主にBSEの採用、教育、ISOの取得推進を務めることになった。
試用期間後は直ぐに業務課が新設され、私は業務課長を拝命した。
そして間も無く、代田事業部長は瀋陽カナックの設立の為、総経理として旅立って行った。
留守を託されたのは、4人の中国人開発部長と私だった。
私は入社後半年で、事業部の代表代理として経営会議に出席する事になった。

そしてNHKの「おはようにっぽん」が取材に来た。
まさか、NHKの朝のニュースに出ることになるとは思ってもみなかった。