いわゆる左翼のNHKで「天皇家」をやると必ずおかしな話になるんですけど、今回のBSプライム「英雄の選択」における崇徳上皇のあらましに関しては、結構勉強になる部分が多いので、参考にレポさせて頂きます。
なぜ今、「崇徳上皇」なのかという事についても。
京都白峯神社について
1868年、明治天皇が即位と同時に創建した神社。
スポーツの神様として有名な神社だが、実は崇徳上皇を祀ったもの。
元々崇徳上皇の御霊は讃岐(香川県)にあったが、京都に10日間運ばれて祀られた。「皇族下馬下乗」の看板があり、皇族にとって重要な神社の一つ。
なぜ明治維新の時に創建されたのかというと、大政奉還という政権交代劇があり、崇徳上皇の荒ぶる魂を鎮める必要性があったからと言われている。
74代鳥羽天皇 → 上皇 → 法王
鳥羽上皇由来の安楽寿寺の庭には「鳥羽法皇院政の地」との石碑がある。
平安末期。それまでの摂関政治から退位した上皇や法王が自ら政治を行う。
鳥羽院はそれまでの摂関政治のしきたりや慣習をことごとく無視して一強独裁の政治を敷いた。
その象徴が平安京の南に新たに築いた「鳥羽離宮」
ここでそれまでの政治手法や身分制度にとらわれない独裁政治を行う。
上皇に気に入られれば誰でも政治をとる事が出来た(院の近臣)は身分の低い下級貴族が多く、さらに自らの親衛隊である「北面の武士」を持ち、手柄を立てれば優遇し、権力と富を掌握。
鳥羽院・・・別名「治天の君」
院政の欠点
摂関政治 → 天皇の外戚が政治を取り仕切る
院政 → 院(法王)が独裁政治を行う
例えば皇位継承を始めとする重大問題を院が独裁的に決めてしまう。だからもし院の政治判断が一歩間違えたら国が危うくなってしまう。
世間のルールを一切無視、日本最初の身分破壊、慣習破壊
本来、天皇がやらなければならない煩わしい儀式をやらなくていいという権力が上皇や院。面倒な事はやらずに実権だけ持つ。
権力者が「欲」を表に出してしまったら社会は成り立たない。その強欲が解き放たれてしまったものが「院政」
天皇と律令で硬く締め付けられてきた制度を壊した院政は、誰がリーダーになるかわからない時代。
崇徳上皇ってどんな人?
1119年7月7日生まれ。1164年9月14日死去。
鳥羽天皇の第一皇子として誕生。
1123年、5歳で即位。天皇となる。(鳥羽天皇は鳥羽上皇になる)
和歌の才能にあふれ、教養が深く華やかさがある天皇だった。
1141年、譲位。上皇となる(この時点で鳥羽上皇は法王になる)
通常の皇位継承・・・鳥羽院 → 崇徳上皇 → 重仁親王が即位(崇徳の子)
BUT
鳥羽院 → 崇徳上皇 → 近衛天皇(崇徳の異母弟)
崇徳上皇は「え?なんで?」と思った。
なぜなら「院政」は天皇の父及び祖父でなければ行えず、「兄」では無理だから。
崇徳上皇は一旦は近衛天皇を容認しつつ、その次は重仁親王になるだろうと期待しつつ、権力のない「上皇」の座におさまり、独裁政治はそのまま鳥羽院が続ける。
1155年 近衛天皇崩御 これで重仁親王即位?
BUT
鳥羽院 → 崇徳上皇 → 後白河天皇(崇徳の実弟)
崇徳上皇の人柄・・・教養があり華があり和歌に優れている
後白河天皇の人柄・・・今様(歌謡曲)大好きな遊び人
元々後白河天皇はその子、守仁親王(二条天皇)が天皇になるまでの中継ぎとして即位。その後、譲位して後白河上皇となり院政開始も二条天皇との対立激化。
崇徳上皇の出生の秘密?「崇徳上皇の本当の父は祖父の白河上皇である」との噂が流れ、それを信じた鳥羽院が崇徳を「叔父子」と言って嫌ったが、実はこの噂を流したのは後白河派だったとも。
反鳥羽院・藤原頼長の登場
家柄・知識が優れていた
摂関政治の栄華を取り戻したい
かなり横暴
政治の中枢から外された為に崇徳上皇に近づく
武士たちの台頭
摂関家と天皇家のイザコザを利用してのし上がろうとする。
1156年 鳥羽法皇崩御
後白河天皇派 → 崇徳上皇と頼長に謀反ありとの噂を流す
武士たちを集める
崇徳上皇派 → 自分に謀反の気持ちはないが、こういう噂が流れるのは院政のせい。
藤原頼長 → 古きよき時代へ帰る事こそが正しい政治のあるべき姿であり、天皇の姿だ。歴史の歯車を逆回転させようとする。
頼長に説得されて崇徳上皇は武力行使を決意
崇徳上皇の選択・・・保元の乱
崇徳上皇派 → 藤原頼長・源為義・為朝・平忠正
後白河天皇派の武士 → 藤原忠道・源義朝・平清盛
結果は後白河天皇勝利。崇徳上皇派は死刑・・・350年ぶりの死刑復活
崇徳上皇は讃岐に流罪
時は平安時代から武力で権力を奪い合う武士の時代へ
政治権力の転換期・下剋上
流罪後の崇徳天皇
最後に暮らしたのは小さな小屋
46歳で死去
死後、棺が置かれた場所から血が流れたので「血の宮」と呼ばれる
崇徳上皇・・・怨霊になる
後白河法皇は崇徳の死を無視
延暦寺強訴・安元の大火・鹿ケ谷の陰謀
後白河法皇の身内が次々亡くなる
貴族達の間で「崇徳上皇怨霊説」が流され、後白河法皇は対策をとる
「皇を取って民とし民を皇となさん」は後の作り話
幕末、平田篤胤により「崇徳上皇の魂を鎮める必要あり」との意見が出される
その理由は「朝廷の権限が衰え武士の世の中になったのは崇徳上皇の怒りにあるのではないか。今こそその祭祀を復興すべき」
崇徳上皇死後100回忌毎に政権が変わる・・
崇徳上皇の怨霊の意義とは
日本人の心の中にあるうしろめたさや反省の気持ちの表れ
日本人の中にある「行き過ぎない為のストッパー」
中国や朝鮮半島のように易姓革命がない日本(王朝が変わらない)
しかし、崇徳上皇の怨霊は「天皇をもって民とし民をもって天皇とす」と言ったとされているが、それは「天皇と公家の権威に甘えた生き方をしていると大どんでん返しを起こされるぞ」という戒め、襟を正す意義があった。
暴虐なことをしたり贅沢三昧をしたりすると、本当に易姓革命が起こり皆殺しにされかねないから「きちんと義務を果たそう」堕落させない為の戒め。
崇徳上皇の生涯や院政について学ぶと、明治政府がなぜ「譲位」を禁じたのか本当によくわかります。
明治の頃にはまだ崇徳上皇の怨霊が闊歩していたのです。
譲位を認めることは院政を敷いてしまうかもしれない危険性があったからです。
そして来年は崇徳上皇没後855年ですね。
今上はすでに一強独裁の状態にあります。彼は崇徳上皇の怨霊など信じていないでしょう。自分が即位した後、一体どれほど沢山の天変地異が起きたかしれやしませんが、それを全部「慰霊の旅」で浄化したつもりになっているだけなんです。
でも今でも日本人の一部の人達は信じています。阪神大震災が起きたのも、東日本大震災が起きたのも、新潟も熊本も・・・でも今上の目が向いているのは70年以上前に被害を受けた沖縄のみなんです。
昭和天皇だって終戦の詔の時は日本全国の神社に皇族を派遣したものですし、何かあればすぐに祭祀に結びついたものですが、科学者の天皇は心の中では「祈りが何の役に立つのだろう」と思っています。
そんな事よりパフォーマンスを見せる事が正しい天皇の在り方であると信じているのです。
思えば水俣病は高度経済成長期の日本におけるチッソという企業がおごり高ぶった結果の事でした。しかも、それに対して適切な処置をするでなく、かえって人を傷つけた。雅子妃が皇室に入ってはいけない人だったと言われるのも、元々の心がおかしな状態にあったというのも、たった一人の内親王がああである事も、全て理由づけをされてもしょうがない状態になっている事に、「水」がテーマの皇太子は知るどころか翻弄され弄ばれ巻き込まれ、やがて同化しようとしています。
しかし、皇室を昭和以前に戻す事は不可能です。
眞子様の結婚問題に関して、相手方をきちんと調べない宮内庁、むしろ庶民の方が危機感を覚えてあれこれ調べまくり情報だってどんなに開示してきたか・・庶民よりも宮内庁がすでに「皇族とはどうあるべきなのか」がわからなくなっている。
今上に気に入られ・・・というか美智子皇后に気に入られたら「近臣」となり、とりあえず日々の業務が終わるといった具合でしょうか。
これは宮内庁だけでなく国の役所、地方自治体にも言える事ですが、「公」の仕事の意義がわからない状態なんですね。あるべき姿がわからないから先例を優先する。それだけならまだしも、上司の言いなりなっているのが今の役所ですから。
森友問題にしても官僚よりも政府主導になりすぎた事が「忖度」を生んだと言われ、そういう事で言えば宮内庁も政府も総理大臣も全てが天皇・皇后に「忖度」し、やりたい放題させている。それをさらに助長しているマスコミという図式が浮かび上がります。
民意とずれすぎている皇室に意義があるのか。
これで正当な皇位継承者である秋篠宮や悠仁親王に皇位が受け継がれなかったら、必ず宮家が怨霊となるでしょう。
(私は紀子様が怨霊になったら21世紀最強になるなーーと思います。それくらい紀子様が歩んでこられた日々は理不尽で壮絶な辛さをはらんでいます)
それゆえ紀子様を怨霊にしない為にはどうしたらいいのか・・・さっぱりわかりませんが。
譲位後の上皇が住む高輪御所と元東宮御所はまさに天皇をシカトした「朝廷」になりそうな雰囲気ですよね。
戒めを与えられてもそれが戒めと思わなかったらどうなるんでしょうか?
滅びの道を歩むだけではないのですか?
ただ、ここだけがちょっと不思議だったので、お尋ねしたいのですが。
「1119年7月7日生まれ。1142年1月5日死去」
これは番組の中で、そう紹介されていたのですか?
私の持っている
「天皇125代」という本の中では、崇德(「德」の字もこちら表記になっています)天皇の生没年は
1119年5月28日生まれ~1164年12月7日逝去
ふぶき様も「46歳で死去」と書かれておられますので、1164年死亡説の方が正しいかと。
上記1142年の死亡説はどなたのことを紹介しておられたんでしょうね?不思議です。その暦年だと、崇德上皇享年23歳になってしまう。
鳥羽上皇1156年没
近衛天皇1155年没
なお、崇德上皇の死に方は、「仏教の写本づくりに専念し、でき上がったものを京の寺におさめてほしいと懇願したにもかかわらず、後白河がこれを拒み、写本を送り返してきたため、崇德院激昂。天皇家を激しく呪いながら、『舌を噛み切って自死』した」とのこと。
歴代天皇でも、ここまで凄まじい死に方をした天皇は、他に記憶がありません。
小さなお帽子のあの方の尊大な心根がそのお顔に顕れて、醜悪で強靭な妖怪のようでございます。
生前退位に至るまでの平成の専横の数々、甘やかされご自分のお立場も理解できないあとに続く方々のしてきたこと、在り方、すべてあの方々に跳ね返ってくるのではないでしょうか。
口にしてはいけない願いを抱えた民草の怨念怨霊は、いよいよ溜まりに溜まり、堪りかねて、あの方々を襲うのではないでしょうか。
そう思わなければ、いまの混沌の世を生き抜くことはできません。
平成の暗黒、次代の地獄を耐えるしかないのか、その後の御代まで、何としても見届けたいものです。
そうでなければ、日本人として生まれてきた甲斐が、ございません。
再放送があるようなので、私は 録画予約をしました。以下おしらせまで
4月5日木曜 NHKBSプレミアム 午前8時00分~ 午前9時00分
「英雄か怨霊か? 保元の乱の敗者・崇徳上皇の涙」
今回の私たちはなぜシリーズ 考えさせられることが多く、感謝しております。
ふぶき様ほど歴史に詳しいわけではありませんが、
歴史の中で王家が倒れるとき、王家にそとからはいってきた妃が革命派とないつうして というような例も過去にはあったようなーーー。
今日は皇室の歴史を書いて下さり
大変ありがとうございます。
歴史物が大好きな母でしたので
母の気分になって読ませて頂き
ました。
ところで私は最近眞子さまの情報に
ほとんど聞いたり、読んだりしません。
何か嬉しい変化はないのでしょうか?
今上退位、眞子様延期の結果、皇室が姿を変えることになっても、それぞれには自業自得ですが、ギリギリで産まれた悠仁殿下と紀子様には酷でしょうね。
ふぶき様の言われる最高の怨念、見たい気もします。女帝真っ青かも。恐いな。
時代の自浄作用の大きなうねりの気配が急速に迫りつつあるように感じます。
確かに死を願うのはいけませんよ
ただ、今上とコウゴウはジェノサイドした某大国の国際信用が失墜した後にその大国を訪問し、日本国 日本人が築き上げてきた「信頼」を今上とコウゴウが来ることによって日本の「信頼」その大国が利用した。
はっきり言って、人〇しの肩を持ったのですよ、人〇しの…
平成の御代に入り30年 沢山の天災が起こり過ぎている。天子は自分に非があるから天災が起こると己を責めるはず、なのに お見舞いに行きば良い「大変でしたね」と声掛けりゃー良い
違う 祈って下さい。天子様は
それと話がずれますが、皇族方は一次産業に携わる方達にもっと励ましてほしいですね。農家 漁師 林業など、それだけでも新嘗祭のパワーが増えて日本の力が増すかと。
毎回の渾身の解説、有り難うございます❗
特に最後のほうで
「崇徳上皇の怨霊の意義とは」の箇所
本当にその通りと思います。
怨霊、祟りが 日本の歴史の流れの底に
連面と存在していますねーーー❗
恐れや崇拝の気持ちを持たない方々には
日本の皇室の未来は託せ無いと
思うのですがーーー
連面→連綿と でした。スミマセン❗
タイトルの本を買っていましたので、
読み返しています。
かっての
「隠された十字架ー法隆寺」梅沢猛(新潮文庫)や
「逆説の日本史」井沢元彦
の系列に繋がる本でした。
✳本当に「日本史は、怨霊とたたりを恐れる歴史である」ーーー ですね❗ 合掌
崇徳上皇が最大の怨霊だと最近知って驚きました。初めて崇徳院を知ったのは百人一首。解説には「われてもすえに」からが激しい御気性が表れているとありましたがピンときませんでした。その後は落語の崇徳院ですがハッピーエンドだし。「はいからさんが通る」では崇徳院の「せをはやみ」を伊集院少尉の祖母が歌っていました。祖母が昔の恋人の孫であり身分違いの紅緒を、夫の反対を押し切って少尉の婚約者として迎えた執念、崇徳院の御歌の執念とつながっている気がします。
今や崇徳院の御いたわしさとそれゆえに恨みの怖さを知るようになりました。
最高に高貴な身分ゆえに恥を受けたら怨霊も力が強いのかもしれません。
御名前に崇徳院と同じ字を持つ御方、
この人がこの先無念の思いを抱くようになったらとゾッとします。