ソマチット
バクテリア以前の生命体とでも定義するのでしょうか。
発生時代的には35億年ほど前に地球環境に出現する。
バクテリアはその後でした。
エサは「マイナスイオン」つまり電子過剰の元素です。
電子そのものをエサとするのは、生物ではなく「元素・原子」レベルなのでしょう。
生物の営みに限らず、宇宙の現象はすべて「エネルギー代謝」と言い換えられると思いますが、どのようなレベル、形態でエネルギーを代謝するかで、存在形式が決まってきます。
宇宙本体=全体から分離したような「個体」の存在感は「個体性」そのものが原点でしょう。つまり、個として分離し存在感を感じることが、個としての存在意義の原点だということです。ゴチャゴチャした色気、枝葉の以前に「ある」だけの存在感覚が喜びの原点であるということです。
高等な生き物になってもその生きる喜びの感覚の原点は「存在感」でしょう。
tokorode-
存在の中にいて「同質の存在感」は感じ得ないのが単純な理屈です。
空気中に生きている習慣の人間は「水中」と空気中の違いを識別します。
ずっと水中に生きている生き物にとって「水中」という特別認識は不要です。ただ、周りにある物が「単純に水であることの認識」は最低限必要ですが。
生きることの正しい認識、絶対的認識は「死との対比」によってするべきではないし、できる物ではないと直感すべきです。
「生きる」という感覚は、そもそも総合的な循環性の中に「自生」してあるものです。生きる感覚の一部に「死」の感覚があると考えるほうが、合理的です。
ソマチットは基本的に死なない生物らしいですが、宇宙本体の存在形式に忠実な個体的生命体なのでしょう。
なぜ、生物は宇宙本体から分離したような「個体的存在物」のように見えるのでしょうかね。
のように~と表現したところがミソですよ。
PECOーpichan
ソマチットの話から直結して「存在論」に飛ぶところが世なおし倶楽部の真骨頂です。
この世とあの世は対立しているようにも思えますが、本質は対立していないとみます。
つながっていると考えればいいのです。今生きているこのときにも常にあの世へ行ったり来たりしていると考えるのです。だから「今生きている」という実感を錯覚、実感できるのです。一見相対的な現象と感じられるのは事実ですが、「対立」してけんかするような関係では決してないということです。ニュアンスとして感覚的に感じてほしいところです。
ソマチットという原則死なない生物の存在を仮に認めるとして、さて、人間存在の幸せを確定させるためには、生死のイメージの幻想を勝手に絶対固定的なものにしてしまったところから発生するらしい「諸悪の根源・矛盾」感覚を制御する秘法は、その「ソマチット」の考察によってさらに明確になると直感しました。
今生きていることを実感でき、普段続けているということの理由は、「目にも留まらぬ瞬間瞬間」に毎日生死を繰り返しているのだと思えば、たやすく理解できます。
夜に寝ることのことを思えば理解の助けになるでしょう。寝ている間にあの世に行っているようだと思いませんか。
dasoku:
化石を作るのはソマチットの仕業でしょう。ソマチットが、環境に振り回されたくなく思い頑固に、自身を変節することなくオリジナリティを存続するためには、化石になるのが一番です。炭素共有結合の有機物のままでは分解しやすくて不安です。 化石の知識がなくてわかりませんが、化石の主成分はケイ素なんでしょうかね。二酸化ケイ素の結晶は水晶です。米、稲穂の籾の主成分もケイ素でした。粘土はケイ素です。!?!ケイ素は腐りません。
微量ミネラル成分をいろいろ含んでいるとしても、主成分はケイ素で堅く腐りにくくなってソマチットの命が長らえられるということでしょうか。
カルシウムとケイ酸とを固めたような化石はソマチットの生き様の一形態と、ポジティブにとらえるのがロマンチックです。
バクテリア以前の生命体とでも定義するのでしょうか。
発生時代的には35億年ほど前に地球環境に出現する。
バクテリアはその後でした。
エサは「マイナスイオン」つまり電子過剰の元素です。
電子そのものをエサとするのは、生物ではなく「元素・原子」レベルなのでしょう。
生物の営みに限らず、宇宙の現象はすべて「エネルギー代謝」と言い換えられると思いますが、どのようなレベル、形態でエネルギーを代謝するかで、存在形式が決まってきます。
宇宙本体=全体から分離したような「個体」の存在感は「個体性」そのものが原点でしょう。つまり、個として分離し存在感を感じることが、個としての存在意義の原点だということです。ゴチャゴチャした色気、枝葉の以前に「ある」だけの存在感覚が喜びの原点であるということです。
高等な生き物になってもその生きる喜びの感覚の原点は「存在感」でしょう。
tokorode-
存在の中にいて「同質の存在感」は感じ得ないのが単純な理屈です。
空気中に生きている習慣の人間は「水中」と空気中の違いを識別します。
ずっと水中に生きている生き物にとって「水中」という特別認識は不要です。ただ、周りにある物が「単純に水であることの認識」は最低限必要ですが。
生きることの正しい認識、絶対的認識は「死との対比」によってするべきではないし、できる物ではないと直感すべきです。
「生きる」という感覚は、そもそも総合的な循環性の中に「自生」してあるものです。生きる感覚の一部に「死」の感覚があると考えるほうが、合理的です。
ソマチットは基本的に死なない生物らしいですが、宇宙本体の存在形式に忠実な個体的生命体なのでしょう。
なぜ、生物は宇宙本体から分離したような「個体的存在物」のように見えるのでしょうかね。
のように~と表現したところがミソですよ。
PECOーpichan
ソマチットの話から直結して「存在論」に飛ぶところが世なおし倶楽部の真骨頂です。
この世とあの世は対立しているようにも思えますが、本質は対立していないとみます。
つながっていると考えればいいのです。今生きているこのときにも常にあの世へ行ったり来たりしていると考えるのです。だから「今生きている」という実感を錯覚、実感できるのです。一見相対的な現象と感じられるのは事実ですが、「対立」してけんかするような関係では決してないということです。ニュアンスとして感覚的に感じてほしいところです。
ソマチットという原則死なない生物の存在を仮に認めるとして、さて、人間存在の幸せを確定させるためには、生死のイメージの幻想を勝手に絶対固定的なものにしてしまったところから発生するらしい「諸悪の根源・矛盾」感覚を制御する秘法は、その「ソマチット」の考察によってさらに明確になると直感しました。
今生きていることを実感でき、普段続けているということの理由は、「目にも留まらぬ瞬間瞬間」に毎日生死を繰り返しているのだと思えば、たやすく理解できます。
夜に寝ることのことを思えば理解の助けになるでしょう。寝ている間にあの世に行っているようだと思いませんか。
dasoku:
化石を作るのはソマチットの仕業でしょう。ソマチットが、環境に振り回されたくなく思い頑固に、自身を変節することなくオリジナリティを存続するためには、化石になるのが一番です。炭素共有結合の有機物のままでは分解しやすくて不安です。 化石の知識がなくてわかりませんが、化石の主成分はケイ素なんでしょうかね。二酸化ケイ素の結晶は水晶です。米、稲穂の籾の主成分もケイ素でした。粘土はケイ素です。!?!ケイ素は腐りません。
微量ミネラル成分をいろいろ含んでいるとしても、主成分はケイ素で堅く腐りにくくなってソマチットの命が長らえられるということでしょうか。
カルシウムとケイ酸とを固めたような化石はソマチットの生き様の一形態と、ポジティブにとらえるのがロマンチックです。