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伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

成田近郊の散策、この辺りは大昔は内海の湾内で海産物も多く出土した事の事実でもある。

2025年04月16日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

おはようございます、今日も定期便のモジャ君との早朝散歩です、桜の花も葉桜になり遅咲きの八重の桜が咲き始めました、もじゃ君の後方にぼんやり見えるピンク色の木が八重桜の木であります。
公園の芝生も緑色は濃くなりいよいよ春爛漫の様でもあります。

実は昨日成田法務局に用事がありジュニアと共に出掛けました。我が家から成田まではパイパスが新設されたために30分ほどで成田市内まで到着します。法務局での用事は簡単に終了しました、ランチには時間があり成田散策に出かける・・・。


昨日は所用で海ほたるに出かけ、すごい風が強く波もウサギが飛び荒れていた。
本日はある程度風邪は治りドライブには絶好である。
成田法務局から15キロ程にて到着予定の「下総歴史民俗資料館」に向かう、詳細は、下総町の町制施行40周年を記念して、1995年に開館した資料館です。その後、成田市の資料館として再出発しました。下総地区で出土した考古資料、民俗資料を中心に約3万点を超える物品が収蔵されており、そのうちの一部が常設展示されています。



公共施設下総公民館の駐車場を利用し隣に隣接しているのが歴史民俗資料館である、木造の橋を渡り雰囲気ある眺めでもある。
残念ながら桜は既に葉桜になり、最近の快晴で初夏の雰囲気が漂う感じである。


グランドもあり桜は散ったが此処も桜の頃は綺麗であろう、それと見学者は我々だけであり館内はゆっくり見学できますね。


途中の花壇もすみれの花が咲き環境的には実に良い。


反対側を見れば公共施設下総公民館を望む景色で環境も良い。



早速下総歴史民俗資料館に入館入場無料でした。靴はスリッパに履き替えて入場する為に靴箱が備えてありました。


いきなりマンモスのイラストと入口を飾っていた。当時はある程度の地球温暖化と海抜が下がり現在の地図に近い状態に形を変えていった。もちろん現在の霞が浦と印旛は内海で繋がっていた様です。


ナウマンゾウの化石で頭部のレプリカ(本物は科学博物館に預けてある)、縄文時代には生息してのであろう、マンモスでもあり人類は大きな獲物から日本海が形成され大型動物から小型動物に獲物の変化と簡単に採取できる海洋生物捕獲と日本人の生活様式が変化していった時代でもあろう。この辺りは当時は海岸線沿いでもあった様で獲物も豊富であった。

基本的には日本人は昔から海との関わり合いが非常に強い人種でもある事は明らかでもある。この辺りでの縄文、弥生時代の出土物も多い様である。



上記は縄文時代の地図で、霞ヶ浦印旛沼は一つの大きな湾であった様であり、東京湾奥の奥江戸湾現在埼玉県辺りまで海岸が接近した浜辺で温暖な生活環境はたいへん食べ物も豊富で、住みやすい環境であった様でもある。

千葉県はもともと安房国(あわのくに)、上総国(かずさのくに)、下総国(しもうさのくに)の三国からなっていました。本日来た下総滑川は利根川南岸の低地と下総(しもうさ)台地にまたがる。 中心の滑川(なめがわ)は近世の利根川水運の河港として栄えたが,成田線開通後衰微し3月27日に成田市へ同郡大栄町と共に編入合併されたとされた。


現在の地名が書かれた地図と重ねてみると良く分かります、縄文時代前期(約1万〜5500年前)に起こった海水面上昇の現象で、地球温暖化が原因です。海面が現在の水準より2~3m高くなったと推定されており、縄文人の生活環境に大きな変化をもたらしました。徳川時代初期の頃は間違いなく江戸城は江戸湾の岸辺であった事が分かる地図である。
関東区域も徳川が収めた時代は土木工事が多く大変な時代とも思う、多摩地方から上水道を導入に利根川の水流を下総方面変え、川を整備し交通と運送を活性化させ繁栄させた功績は大きいですね!勿論この江戸時代に現在の月島は干拓された土地である。


この辺りは鬼瓦の製作も多く今も伝わっているそうです。


隣の安食にもこの様な資料館があり古代の種土品が多くあるそうです。


これは弥生時代の生活様式であろう・・・


装飾品勾玉等


表題には枕と書かれてあったが、死者を弔った枕であろうか?頭の周りに飾りがあったのである


これは江戸時代の農機具で、水田の構築に適した船であるそうです。当時の運送はやはり船が手軽に運べる事で使用範囲も大きのであろう。


祭りに使用された神輿であり、この辺りは神輿を担ぎ水に入って祝ったそうです。



鬼瓦で阿吽の呼吸の一対である



おなじみ「べんけい貝」」貴重な「オオツタノハ」の腕輪の飾れていた。

意外と貴重な資料も多く無料な事は大変有り難い。



最後に明治時代の足踏み式オルガンが飾られていた。確かに現在放映中のNHKドラマも江戸時代の頃利根川の流れを江戸から千葉に移設を施し、町人も知識率は非常に高く各種の本も豊富にあった様でもある、意外と見応えのある歴史民俗資料館でもある。

当時から日本は繁栄したいた事は想像つくが、敢えて何故政治家不在で今は政治屋ばかりで特に私欲が強い人間ばかりになってしまったのであろうか、次の参議院議員選挙から今の腐れ政治を変えなければならない。



明治中期に開設された成田線「成田鉄道は、下総国の北部に就いて布設し、其本線は日本鉄道会社の土浦線路(現在の常磐線)我孫子駅に接し、其支線は総武鉄道会社の線路佐倉駅に接す。延長四十五哩(マイル)五鎖(チェイン)の鉄道なり。」所謂成田山新勝寺参拝を視覚的なニュース・メディアとして盛んに活用されていましたと言われるそうです成田さん詣は娯楽でもあった様です。

帰路に電車を見た、JRの我孫子から先の成田線の単線部分である。筆者などは30歳過ぎに千葉に住むが千葉の地理には疎く今更ながら日本の歴史を思い直し驚いたり感動したり正に興味津々なり・・・!


行きに見つけた有名な「はたやのくず餅」看板が出てたからわかりましたが、無かったら気づかなかったかもです。でも駐車場は満車でした。
帰りに立ち寄った「はたや」、お店の前の大きなジャリ敷きの駐車場に車を入れ、お店に入りました。


くず餅、心太をお土産に購入し、帰宅後頂くが大変瑞々しく見め細やかで美味しいくず餅でした。

帰路につき印西にて食事休憩をする。


地元の人が知った中華の名店「真味(しんみ)」特に餃子、チャーハンが有名。
お店の入り口に大きな「刀削麺」の紹介の看板がありました。
「刀削麺」とは・・・中国山西省で生まれた中国五大麺のひとつで、水で練った小麦粉の塊を、くの字に曲がった刀で麺を削り出す調理法とのこと。

本日は海鮮刀削麺を注文しました。


スープが実に旨し、和風の感じがあり実に良い具合で麺も腰があり海鮮の具も美味しく頂きました。

このブログは今年終了するそうです、ブログ先変更したら案内します。
長い間皆様には大変ありがとうございました。

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