お天気につられて昼過ぎから京都へでかけた。
行き先は国立京都博物館の「法然展」、8日で閉幕するので連休後半は混雑するはず、少しでも早く見ておきたくて、それに合わせて法然上人ゆかりのお寺を訪ねて歩くことにした。
それに明日、W倶楽部の例会でメンバーを引率するが、震災後、誕生日以外はまったく歩いていないので足慣らしをしておこうと思った。
京都駅を12時40分にスタート、高瀬川を渡り鴨川にかかる七条大橋へ、この橋からいつもなら左前方に見える比叡山が黄砂でまったく見えない、これから向かう東山方面もぼんやりとしている、こんなにひどい黄砂は初めてみた。
13時過ぎに博物館へ着いた、やはり訪れる人は多い。
京都は「法然上人八百回忌」と「親鸞上人七百五十回忌」の年ですでにさまざまな行事が行われており、展覧会も時期が重なるように開催されており、それ目当てに上洛してくる人は多いと思うが震災の影響はどうなっているのやら・・・。
親鸞上人については書物も沢山あり、真宗のお寺に行くと親鸞さんの像に出会うこともよくあり身近に感ずるが、法然上人については意外と知るものが残されていない。そんなこともあって法然上人のことを少しでも知ることができればいい、そんな思いで楽しみに館内に入った。
法然上人は、浄土宗の宗祖、日本の仏教界では鎌倉仏教のリーダー(広めた最初の人)で、平安時代の末期に、人々を救済するために念仏信仰を唱え広めた。(1133~1212)
早くから比叡山で修業を積んでいた法然は、修行僧をみて疑念を抱き、山を降りて、厳しい修業をしなくても念仏を唱えれば人は救われると説き、それが民衆はもとより公家や武家まで法然に帰依するほど広まったが、それを他宗から迫害されて四国に流罪されるなど苦難の道を歩みながら「浄土宗」の基礎をつくりあげた、親鸞さんは法然さんの弟子にあたる。
法然上人が仏教界に与えた影響(改革)は計り知れないと思う。末法思想が蔓延した平安時代に、死後は阿弥陀如来の極楽浄土へと憧れさせ民を導いた浄土思想から、次々と新しい宗祖と宗派が生まれていった、その先人が法然上人だったと・・・思うが。
展覧会は、その法然上人の生い立ちから亡くなるまで、そして引き継がれるまでの生涯を国宝「法然上人絵伝四十八巻」という華麗な絵巻物で繰り広げられているのがメインで、それも鮮明な絵図で大変わかりやすくて興味深かった。伝記といえばわかりやすい。
また、国宝、重文をはじめ数々の名品も展示されていた。
展覧会場から出ると浄土宗の総本山「知恩院」をめざしてウォーキング、東山七条から清水寺へ通ずる東山五条、円山公園の中を通り抜けて知恩院へ、黄砂の関係か蒸し暑い、やがてあの壮大な知恩院の三門の前に着いた。先月8日にも来たばかりだから”こんにちは、この間はどうも”。
徳川秀忠によって建てられた二階建ての三門は国宝で最大の建造物。とにかく大きい。そこから知恩院の中心の御影堂へ行く石段(男坂)はきつい。
知恩院が浄土宗の総本山として拡大したのは徳川家の庇護によるところが大きかったらしい。代々徳川家は浄土宗で家康は知恩院を徳川家の菩提寺にした。
御影堂へ入ると大勢の人が畳の広間に座っている。こちらもそれを楽しみにしてきたのだから座らせてもらう。ただ歩くだけではもったいない、やっぱり心の寄り道が大事、神社仏閣はそのためにあると思うがいい、仏さまの前に座っていると心までも座るようで気持ちが落ち着く。年齢のせいかもしれないがそんな時が自分に戻れる貴重な時間、自分にとってウォーキングはそうありたいと思っている。
座りながら思いつくままに浮かぶことを文字にして書き込んでみようといつも携帯しているマイノートを広げたがまわりも人ひと・・・気になってリュックにしまいこんだ。
知恩院の北口から出て青蓮院前を通り平安神宮の横を通って次に目指すは、やはり浄土宗の金戒光明寺、法然上人が比叡山を降りて最初に草庵を結んだのがこのお寺の始まり。ここの三門もひときわ壮大で階段を上がると御影堂がある、ここから京都市内が展望できる。高台にあるために余計に迫りくるものを感じた。ここに来たのは恐らく20代の時だろう、ほんとうに久しぶりに来た。残念ながら着いたら16時を少し過ぎていて特別拝観は終わっていた。
金戒光明寺は、幕末に京都の治安維持のため京都守護職についた松平容歩は会津藩の本陣として倒幕派の取り締まりに新撰組を下に置いたことでも知られているが、蛤門の変や伏見鳥羽の闘いで亡くなった会津藩の墓所がある、それは立派な墓所で今日も掃除をしている人を二人見た。
さらに大河ドラマの「江」の立派な供養塔があるのを始めてしった。後に徳川秀忠に嫁いだ江だから、やはりこのお寺も徳川家とゆかりがあったのかもしれない。
17時になった、さあ帰ろう!ここから京都駅まで歩く!はるか向こうに京都駅前の京都タワーが見える、ざっと見積もって18時半くらいかな・・・
帰り道は平安神宮へ立ち寄って先月歩いた白川通りを歩いてみた。
夕暮れまじかの四条市場大橋の上に行くと始まったばかりの川床に灯りがつき始めて京都らしい風情を見せていた。
さすがに橋の上を行きかう人でいっぱい、気がついたのは、いつもの京都観光コースなら中国語と韓国語があふれているのに今日はひとことも聞かなかった。
やはりここにも震災の影響が色濃く出ている、京都にも外国人観光客が来ていないのだ・・・
先月は桜の下を歩いた木屋町を高瀬川にそって五条大橋まで歩き、牛若丸と弁慶の像がある牛若公園で最後の休憩。
、そのまま五条通りから烏丸通を歩いて京都駅へ着いた。18時32分、ほぼ予想していた時間で無事に久しぶりのウォーキングを完歩した。歩数は約27,000歩。
行き先は国立京都博物館の「法然展」、8日で閉幕するので連休後半は混雑するはず、少しでも早く見ておきたくて、それに合わせて法然上人ゆかりのお寺を訪ねて歩くことにした。
それに明日、W倶楽部の例会でメンバーを引率するが、震災後、誕生日以外はまったく歩いていないので足慣らしをしておこうと思った。
京都駅を12時40分にスタート、高瀬川を渡り鴨川にかかる七条大橋へ、この橋からいつもなら左前方に見える比叡山が黄砂でまったく見えない、これから向かう東山方面もぼんやりとしている、こんなにひどい黄砂は初めてみた。
13時過ぎに博物館へ着いた、やはり訪れる人は多い。
京都は「法然上人八百回忌」と「親鸞上人七百五十回忌」の年ですでにさまざまな行事が行われており、展覧会も時期が重なるように開催されており、それ目当てに上洛してくる人は多いと思うが震災の影響はどうなっているのやら・・・。
親鸞上人については書物も沢山あり、真宗のお寺に行くと親鸞さんの像に出会うこともよくあり身近に感ずるが、法然上人については意外と知るものが残されていない。そんなこともあって法然上人のことを少しでも知ることができればいい、そんな思いで楽しみに館内に入った。
法然上人は、浄土宗の宗祖、日本の仏教界では鎌倉仏教のリーダー(広めた最初の人)で、平安時代の末期に、人々を救済するために念仏信仰を唱え広めた。(1133~1212)
早くから比叡山で修業を積んでいた法然は、修行僧をみて疑念を抱き、山を降りて、厳しい修業をしなくても念仏を唱えれば人は救われると説き、それが民衆はもとより公家や武家まで法然に帰依するほど広まったが、それを他宗から迫害されて四国に流罪されるなど苦難の道を歩みながら「浄土宗」の基礎をつくりあげた、親鸞さんは法然さんの弟子にあたる。
法然上人が仏教界に与えた影響(改革)は計り知れないと思う。末法思想が蔓延した平安時代に、死後は阿弥陀如来の極楽浄土へと憧れさせ民を導いた浄土思想から、次々と新しい宗祖と宗派が生まれていった、その先人が法然上人だったと・・・思うが。
展覧会は、その法然上人の生い立ちから亡くなるまで、そして引き継がれるまでの生涯を国宝「法然上人絵伝四十八巻」という華麗な絵巻物で繰り広げられているのがメインで、それも鮮明な絵図で大変わかりやすくて興味深かった。伝記といえばわかりやすい。
また、国宝、重文をはじめ数々の名品も展示されていた。
展覧会場から出ると浄土宗の総本山「知恩院」をめざしてウォーキング、東山七条から清水寺へ通ずる東山五条、円山公園の中を通り抜けて知恩院へ、黄砂の関係か蒸し暑い、やがてあの壮大な知恩院の三門の前に着いた。先月8日にも来たばかりだから”こんにちは、この間はどうも”。
徳川秀忠によって建てられた二階建ての三門は国宝で最大の建造物。とにかく大きい。そこから知恩院の中心の御影堂へ行く石段(男坂)はきつい。
知恩院が浄土宗の総本山として拡大したのは徳川家の庇護によるところが大きかったらしい。代々徳川家は浄土宗で家康は知恩院を徳川家の菩提寺にした。
御影堂へ入ると大勢の人が畳の広間に座っている。こちらもそれを楽しみにしてきたのだから座らせてもらう。ただ歩くだけではもったいない、やっぱり心の寄り道が大事、神社仏閣はそのためにあると思うがいい、仏さまの前に座っていると心までも座るようで気持ちが落ち着く。年齢のせいかもしれないがそんな時が自分に戻れる貴重な時間、自分にとってウォーキングはそうありたいと思っている。
座りながら思いつくままに浮かぶことを文字にして書き込んでみようといつも携帯しているマイノートを広げたがまわりも人ひと・・・気になってリュックにしまいこんだ。
知恩院の北口から出て青蓮院前を通り平安神宮の横を通って次に目指すは、やはり浄土宗の金戒光明寺、法然上人が比叡山を降りて最初に草庵を結んだのがこのお寺の始まり。ここの三門もひときわ壮大で階段を上がると御影堂がある、ここから京都市内が展望できる。高台にあるために余計に迫りくるものを感じた。ここに来たのは恐らく20代の時だろう、ほんとうに久しぶりに来た。残念ながら着いたら16時を少し過ぎていて特別拝観は終わっていた。
金戒光明寺は、幕末に京都の治安維持のため京都守護職についた松平容歩は会津藩の本陣として倒幕派の取り締まりに新撰組を下に置いたことでも知られているが、蛤門の変や伏見鳥羽の闘いで亡くなった会津藩の墓所がある、それは立派な墓所で今日も掃除をしている人を二人見た。
さらに大河ドラマの「江」の立派な供養塔があるのを始めてしった。後に徳川秀忠に嫁いだ江だから、やはりこのお寺も徳川家とゆかりがあったのかもしれない。
17時になった、さあ帰ろう!ここから京都駅まで歩く!はるか向こうに京都駅前の京都タワーが見える、ざっと見積もって18時半くらいかな・・・
帰り道は平安神宮へ立ち寄って先月歩いた白川通りを歩いてみた。
夕暮れまじかの四条市場大橋の上に行くと始まったばかりの川床に灯りがつき始めて京都らしい風情を見せていた。
さすがに橋の上を行きかう人でいっぱい、気がついたのは、いつもの京都観光コースなら中国語と韓国語があふれているのに今日はひとことも聞かなかった。
やはりここにも震災の影響が色濃く出ている、京都にも外国人観光客が来ていないのだ・・・
先月は桜の下を歩いた木屋町を高瀬川にそって五条大橋まで歩き、牛若丸と弁慶の像がある牛若公園で最後の休憩。
、そのまま五条通りから烏丸通を歩いて京都駅へ着いた。18時32分、ほぼ予想していた時間で無事に久しぶりのウォーキングを完歩した。歩数は約27,000歩。