BC45年から44年、55歳のカエサルは元老院と市民集会から、
次の「ユリウス・カエサルの特権」を与えられた。
1.450年間も続いた六ヶ月に限定された独裁官の任期を、
終身任期とする。すなわち、カエサルは終身独裁官となった。
2.カエサルが必要と考えれば執政官も兼務できる。
3.凱旋した将軍に対する敬称「インペラトール」を常時使用する権利。
4.「国家の父」と言う称号。
(ローマ建国の父とされるロムルスが一人目で、二人目がカエサル)
5.凱旋式当日の凱旋将軍のみに許される紫のマントの日常的着用。
6.非常に名誉な月桂樹で作られた冠の日常的着用。
7.社会一般の風俗矯正を司る「倫理矯正官」の終身単独就任。
8.元老院では執政官より一段と高い座を占める栄誉。
9.劇場や競技場で一番良い席を占める栄誉。
10.カピトリーノの丘のユピテル神殿入り口に王制時代の王達の像の間に自分の立像を置くことを許される栄誉。
11.元老院で最初に発言する権利。
12.ローマ国家の官公職の任命権。1
3.拒否権と肉体的不可侵の権利
(この肉体的不可侵の権利は、次回で重要な意味を持つ)
14.通貨に横顔を彫らせる権利。
15.7月の呼び名をローマ2代目の王名「クインテリウス」から「ユリウス」に改める。英語の読み方は「ジュライ」となる。
16.カエサル政治の基本精神は「寛容(クレメンティア)」である。
「カエサルの寛容(クレメンティア・カエサル)の神殿建設を認められた。
カエサルは、多民族総合国家統治方式としての帝政をこうして実現しようとしたが、当時彼の考えはほとんどの人達の想像をはるかに超えており、民衆は彼のことを「王」と呼んだ。
カエサルは「私は王ではない。カエサルである」と答えた。
カエサルは、王は一民族の長であり、皇帝とは多民族をまとめるものと区別していた。
カエサルはローマ人と属州人(ガリア・スペイン・ギリシャ・・・)との統合と融和を考えていたが、当時の人々はローマのことしか考えられなかった。
終身独裁官に就任したカエサルに「カエサルは王位を狙っている」という噂がつきまとってはなれなかった。
王政アレルギーのローマ人に対して、カエサルは「執政官マルクス・アントニウスは終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルに対し王の権威を受けるように願ったが、カエサルはそれを拒絶した」と大理石の柱に公式記録として刻ませた。
それから一ヶ月もたたない3月15日(カエサル56歳と4ヶ月)、元老院の議場で暗殺された。
彼に敗れた敵の命を助けただけでなく自由も保証したカエサルは、日頃次のような生き方をしていたのであった。
「・・・私の目指す事業の完成に協力してくれたらどれほど喜ばしいことか・・・、助言でもよい。忠告でもよい、あなたや他の人々がそれぞれ得意とする分野での協力でもよい、私は常にそれが役立つと思えば誰の提案であっても受け止めてきた。」
歴史のifは無意味であることは承知しているが、彼が古希くらいまで生き延びていればどうなっただろうか。
「素晴らしい統治体制を確立しこの後の世界のありようを大きく変えたかもしれないし、あるいは、とんでもない暴君として歴史にその名をとどめていたかもしれないのである。」
小生は、卓越した先見の明と私利私欲を脱却した統治により、理想世界の実現ができたのではないかと、彼の早い死を惜しむものである。