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12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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ユリウス・カエサル24 その1

2009年03月15日 08時42分21秒 | Weblog

 

今日は3月15日である。

北緯34度29分の玉野市の今日は少し寒さが強いが、昨年の3月上旬のローマ(北緯41度29分)は岡山より遥かに北に位置するが地中海性気候のためであろう薄着でも汗ばむほどの快適な陽気だったと記憶している。ずいぶんと住みよい気候であった。

BC44年3月15日はカエサル暗殺が実行された日である。
3月15日“The ides of March”として西欧では、カエサルの暗殺日として知らないものがない。

カエサル暗殺にちなんで
「ブルータスお前もかのブルータスは誰か?」について二人のブルータスに登場してもらい彼等について、今日明日、その1とその2の2回続けて書く。

1. 一人目のブルータス「マルクス・ブルータス」(当時40歳前後)

八歳で父をなくしたブルータスの母親セルヴィーリアは、子育てに熱心な賢母でもあったが、再婚が当たり前のローマにあって生涯未亡人を続け、またカエサルの生涯の愛人でもあった。

ブルータスは東大を卒業しオックスフォードとプリンストンとで学位を取得したような哲学一本の青年だった。しかし、金融業に成功し借金とは無縁の生活をしていた。

ブルータスは成人の後、父の敵であるポンペイウス派に参加し有名なファルサルスの会戦に参戦してカエサルに敗れた。

カエサルは部下にブルータスだけは殺さぬように指示し、丁重な護衛の一隊まで派遣してまるで家出をした息子を母親に送り届けるように愛人セルヴィーリアのもとに送った。

また、カエサルはこの生涯の愛人の願いを聞き、このブルータスを北イタリアの総督にまでにしている。

ブルータスは、広い知識と深い教養の持ち主だったが学者になるべき人だった。

「カエサルが与えてくれる私益を犠牲にしても、国家ローマの公益を重視する人・無欲の人・潔白な人・野心のない人」と思われ、マルクス・ブルータスはカエサル暗殺の旗手とされたのだった。

カエサルの暗殺では、ブルータスは担がれただけで、妹の夫であったカシウス(注2)が真の主謀者であった。しかし、ブルータスが主謀者になったことで参加者が増えたことも事実であった。

カエサル暗殺に加担した反カエサル派元老院議員は60人であったとする説もあるが確証はない。しかし、実行部隊の14名の名は判っている。カエサルはこの14名に刺され、傷は全部で23箇所、致命傷は胸に受けたものだけだった。

カエサル下の幕僚や側近達のうち20人に一人に相当する5名が暗殺に加担したのだった。

 2. 二人目のブルータス「デキウス・ブルータス」(当時40歳前後)

カエサル傘下の幕僚では最も軍事的才能に恵まれた一人で「青年ブルータス」と記され、カエサルが才能を認めかわいがっていた。

しかも、カエサルは暗殺後公開された遺書の中で
「第一相続人(注1)が相続を辞退した場合の相続人に指名していた」。

従兄弟のマルクス・ブルータスではなく、このデキウス・ブルータスが「ブルータスお前もか!」のブルータスとする研究者が多い。

(注1) 相続第一人とは初代皇帝となるオウタビアヌス(当時18歳と六ヶ月)だった。

(注2) 暗殺の真の主謀者はカシウス・ロンジヌス(40歳前後)。

若くして戦闘の指揮官になったが、有名なカッレの敗戦で総司令官を見捨てて500の騎兵と共に逃げている、いわゆる敵前逃亡である。

またポンペイウス軍に参加し敗色濃しと見るや指揮下の全軍船を引きつれカエサル軍に降伏している。

 

残虐行為を嫌ったカエサルは、「カエサルの寛容」により、多くの人の生命を助けまた要職にも就けていたが、これが結果として裏目に出たのだった。