AD355年11月6日、ユリアヌス24歳の誕生日は、誰も祝ってくれる人はいなかった。
上流階級の生まれとはいえ6歳から20歳まで幽閉され哲学を志した若者は、この日「正帝(アウグストウス)」コンスタンティウスから「副帝(カエサル)」に任命された。
一夜にして、あご髭を伸ばし放題のギリシャ哲学者から、きれいに髭をそり皮製の胸甲に紅の大マントというローマ軍の将軍に変身した。
この時代、ドナウ河とライン河は、ゲルマン民族やその他の蛮族からの略奪に対するローマ帝国の防衛線であった。
シーザがBC1世紀にガリアを征服して以降ローマ帝国領となったオランダ南部、ベルギー、ドイツ西部、スイス、フランスにまたがる古代ガリアは、ライン河沿を防衛線としていた。
より困難なのはドナウ河よりライン河の方で、ゲルマン民族系の蛮族に侵略されるガリア地方は、弱体化したローマ軍の少数しか駐留していなかった。そのガリア方面担当司令官として急遽派遣されたのが、ユリアヌスだった。
当時マインツとストラスブールは、「ゲルマニア防壁」と呼ばれるローマの最前線基地だったが、既にストラスブールは、蛮族に占領されていた。
「おお、プラトン、プラトン、哲学の一学徒いうのに何たる大仕事!」と叫んで、全く政治や戦争を知らない24歳の若者はたった360名の兵士を従えて敵地に赴いたのである。
このとき彼が信頼できる供は、僅か4名、二人の従者に一人の侍医と一人の図書係兼書記兼秘書のみだった。その他の供は、正帝のスパイと高級官僚宦官のネットワークの手先というまことに油断のならない取り巻きばかりだった。
閉鎖的で疑り深く優柔不断の絶対専制君主の正帝コンスタンチィウスによる粛清はなによりも注意を要したのはいうまでもない。
なにしろ戦の素人ユリアヌスは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザ)の書いた「ガリア戦記」を急ぎ勉強したという。
次回は、この若者の変身について。
補足;
フランス語読みストラスブール(Strasbourg)は、ドイツ語読みでストラスブルグである。思いがけないときに、メル友の住んでいるこの町の名に出くわした。
2000年の歴史を有する世界遺産の街である。
ケーキ屋の店先
メル友よりの写真
ライン河一本でドイツと隔たれており、5kmほど電車やバスは元より自転車を利用すると容易にストラスブールからドイツの町Kehl(ケール)へ行けるのである。
この地方は、アルザス地方と呼ばれ、歴史的にはドイツとフランスの領土争いが頻発した地域である。
このアルザス地方には、日系の企業も多数進出しているフランスで3番目の工業化の進んだ地方であり、また、大変風光明媚な地方でもある。この地方の民族衣装もすばらしく美しい。