八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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「土俵を塩で清めた」ことについて神主が考えたこと。

2018年04月06日 | 雑感
「土俵を塩で清めた」ことで、さらなる炎上が巻き起こっているようですが、僕は「土俵を塩で清めたこと」に限っていえば「何がアカンの?」と思いました。
神道的「穢れ」観からすれば、男だろうが女だろうが、権力者であろうがニートであろうが、祓うべきは「穢れ」であって、人ではないわけです。「存在そのものが穢れている人間」という考え方を僕は神道を学ぶうえで感じたことはありません。
そもそも神道における「穢れ」とは、おおざっぱにいうと「死」や「病」「血」など生命を脅かすような様々なイメージであり、それらにとらわれた状態を「気枯れ」と称したことに由来しています。
今回、清めの塩が撒かれたのは、M市長が、くも膜下出 血を発症されたことを「穢れ」ととらえたためで、決して市長が穢れているわけではないし、ましてや女性が土俵に上がったからでもない、と単純に神主は考えるわけです。
角界がなぜ土俵を女人禁制にしたのかわからないけれど、もしこれが神道的「穢れ」観の不幸な誤解から発生しているのだとしたら、神道にとっても不本意で残念なことです(たぶん)。
今後、角界がどのような方策をされるのか気になることです。








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