八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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節分は旧暦の年末年始!?

2019年01月30日 | お祭り
たいへん遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
「一年の計は元旦にあり」と昨年末おおいに語っておりましたが、元旦から風邪をひき、たいそう出ばなをくじかれ、心身ともに挫けてしまいました…。
風邪はすぐに良くなり、身体は元通り復活したものの、心のほうはなかなかペースをつかめず、グズグズしております。

そして、あっという間に月日は過ぎて、もうすぐ節分です。
そもそも、節分というものは、旧暦12月30日(旧暦の大晦日)に行われる行事です。

つ・ま・り。

「一年の計」を「元旦」に出来なかった皆さん!朗報です!もう一度、年末年始がやってきます!ここで挽回しましょう!(ええしますとも)。

さて、冗談はさておいて、その節分についてですが、ルーツは宮中行事の「追儺」にあるのだそうです。
では、追儺とは何ぞや。『広辞苑』を紐解くとこのように載っています。一緒にお勉強してみましょうー。

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つい‐な【追儺】
宮中の年中行事の一つ。大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式。舎人とねりの鬼に扮装した者を、内裏の四門をめぐって追いまわす。大舎人長が鬼を払う方相氏ほうそうしの役をつとめ、黄金四つ目の仮面をかぶり、黒衣朱裳を着し、手に矛・楯を執った。これを大儺たいなといい、紺の布衣に緋の抹額まっこうを着けて大儺に従って駆けまわる童子を小儺しょうなとよぶ。殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る。古く中国に始まり、日本には8世紀初め頃、文武天皇の時に伝わったといわれ、社寺・民間にも行われた。近世、民間では、節分の行事となる。「おにやらい」「なやらい」とも。〈[季]冬〉
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なるほどなるほど。

文武天皇といえば、当社の歴史にも由縁の深い御方です。
手持ちの『続日本紀』(文庫本)を調べてみましたら、確かに「この年、全国で疫病がはやり、人民が多く死んだので、初めて土牛を作って追儺の行事をおこなった」と慶雲三年(706)の段に書いてありました。

現在、当社では公式の年中行事としては節分の行事は行われていません。行われていませんが、いわゆる炒り豆を拝殿の賽銭箱前に置いておき、氏子さんたち(主に高塚区)は家から持ってきた豆の小包と神社の豆を取り換えっこする、という風習があります。
面白いもんですね。

例年、神社の炒り豆はごく簡単にお祓いする程度でしたが、節分の始まりが当社の歴史と由縁深き文武天皇の御代に由来することを学びましたので、今年からはキチンとお祭りすることをたった今、決めました。

‪2月1日の早朝、月次祭とともに皆様の厄災祓を期して節分祭の祝詞を奏上します。‬
節分のお豆は、そのお下がりとして‪2月3日の朝‬から拝殿の賽銭箱前に設置させていただきます。
数に限りがございますので、なるべくたくさんの皆様に行き渡ります様ご配慮いただけますとたいへん助かります。どうぞよろしくお願いいたします。


※ 画像は10年程前のものです。
  現在は個包装の福豆を使用しています。

平成31年2月3日.追記です。



今年の節分はこんな感じでした。