八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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『河内喜内』。

2014年09月04日 | ご由緒探訪
拝殿奥の石段をのぼって
本殿前の垣の前の6基の燈籠。

そのむかって左の内側から
最初の燈籠側面に
『河合喜内』と彫られています。

これが有史以来、
確かに存在が史料で確認されている
当社の神職のはじめです。
(それ以前の歴史で確認できる文献は
 続日本紀の記述くらいのようです)



伝承においては、
八咫烏の子孫と称される
・葛野才一郎
・高塚刑部
・山岡藤九郎
という方々が祭祀にあづかった
とされていますが、
詳細があらわされた文献が存在せず、
あまり信憑性に欠けるとされています。

大きな由緒あるお宮で
代々神職を受け継いでおられる方々は、
とても深く長い由緒があって、
本当ににびっくりさせられます。
(50代とか70代とか、ざらなんです)

当社はといえば、
南北朝時代の戦禍によって
古い伝承ごと焼失した不幸な歴史があります。
ですから、確認できる範囲ですと、
江戸中期の河合喜内からはじまり、
河合家から前田家、
前田家から栗野家へと変遷しつつ継承され、
僕で11代目です。

でも、まあ。
誰でもきっと
その時代その時代を担って
生きているんでしょうけどね。

できることなら
「いいカタチ」で
次の世代にバトンを渡したいものですね。








江戸時代の燈籠は語る

2014年06月30日 | ご由緒探訪
当社拝殿から伸びる石段の奥に本殿があります。

この本殿を囲む垣の手前に6基、御垣内に1基、
当社境内の中でも比較的に古い燈籠があります。

当社のご由緒は南北朝時代に何度も戦災に遭ったため、
荒廃し衰微したという不幸な歴史があります。
その時代に書物はすべて焼失してしまったため
特に中世は当社にとって「空白」の時代とされてきました。

江戸時代から史料などには…、

延宝もしくは元和年間に林宗甫によって著された
『和州旧跡幽考』に、このように書かれています。
『八咫烏社。菟田の町より一里■、俗に鷹塚村といふ。
 一むかしにもやなりけん。社くづれ果て礎のこれり』

また『宇陀郡史料』等には、
『文化13年(1816)、下鴨社(賀茂御祖神社)から
 神官が京より参向の際、当社に参って荒廃した社を嘆き、
 近郷有志に働きかけて、神社の催行を促した』

…という旨の内容が書かれています。

では、当社は南北朝の争乱で焼失し、
下鴨社から神職が参向するまで、
そのまんまずーっと放置されていたのでしょうか?

それは違います。

何故か。写真をご覧ください。



享保の時代の燈籠。
「八咫烏大明神」の文字も確認できます。

この他、宝暦時代の燈籠や
今や苔むして難読な元禄時代の燈籠も。

ちなみに
当社における江戸時代のタイムテーブルをあらわすと…
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元和(1615-1624)=江戸時代の始まり

延宝(1673-1681)『和州旧跡幽考』に著される?
天和(1681-1684)『和州旧跡幽考』に著される?

元禄(1688-1704)=燈籠あり

享保(1716-1736)=燈籠あり

宝暦(1751-1764)=燈籠あり

文化(1804-1818)=下鴨社より神官が参向する
文政(1818-1831)=河合家が下鴨社より社守として出向される

慶応(1865-1868)=江戸時代の終わり
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下鴨社から神官がやってくるまでの
時代の折々にも燈籠が奉納されていました。

たしかに戦災によって大きなダメージをうけ
江戸時代の当社は『風前の灯』だったかもしれません。

でも、地域の人々によってお祭りは受け継がれていた。
神さまを崇敬する想いは受け継がれていました。

そのように捉えても良いのではないでしょうか。

(少なくとも僕はそう信じています)







八つの塚

2008年10月04日 | ご由緒探訪
近ごろ、仕事の関係で
奈良県各地域の人々が自ら
「いっぺん自分たちの地元を見なおしてようや」
と、いろいろと頑張っておられる事例を
いくつか目の当たりにして、
僕はムラの構成員として
またムラの鎮守の代表として
なにかできることはないのだろうか、と
思いあぐねていました。

そんな、ある日。
我がムラにもちょっとした動きがありました。

八咫烏神社は高塚・池上・比布の
三ヵ大字からなるのですが
その宮元である高塚地域に昔からあったにもかかわらず
長らくほったらかしだった「塚」を
きれいに整備・保存していこうという機運が高まり
高塚のムラの有志が寄り合って
先日から道をつくったり杭で看板をたてたり
度々奉仕をしていました。

僕はといえば、これら寄り合いには
参加できたりできなかったりだったのですが
とても意義深い事だなあと思い
また
同じような時に同じような想いを
感じてはる人がいたんだなあと
とても嬉しくなりました。

ところで
高塚の「塚」の由緒は、実は詳らかでありません。
ムラの塚は全部で七つあり、
そのほとんどが早くから盗掘されているようですが
中には近年の発掘調査で
弥生時代中後期の溝や穴などの農耕あとや、
須恵器やガラス玉、木製農具などが出土した例もあるそうです。
それぞれに「弓張塚」「山伏塚」など
味わい深い呼称があって興味が尽きません。
また
口伝によると
八咫烏神社の本殿がまつられている小さな山も
昔「たけつの塚」と呼ばれていたという話もあって
これを合わせると高塚の「塚」は合計八つ。

「八」っていう数字、
なんだか偶然だと思えないのは、勘ぐりすぎでしょうか。