八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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『和州祭禮記』

2019年06月08日 | 雑感


先日、古本で購入しました。
この本はやばいです。昭和初期の本です。
奈良県の現在の桜井市や田原本地域である旧磯城郡域内のお祭りや行事を調査した本であり、ムラの信仰のかたちを記録した本です。
そのあとがきにこんな文章がありました。
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由来、世に隠れ人に省みられないかうした祭事は、山間僻地の農山村にほど数多く残つてゐる。しかも素朴な村びとらはこれを敢て記録に留めるでもなく、世に語るでもなく、親から子へ、子から孫へと古からの慣行を連綿として今に伝承してゐるのである。
この悠久無限な「書かれざる歴史」「記録されざる行事」はあらゆる時代の起伏と変遷の屑積を貫いて、滾々と汲めども尽きぬ民族のたましひの泉をなしてゐるのであるが、それだけに資料の蒐集は困難であつた。かいうした祭事も社会圏の開放に伴つて、近年著しく衰滅し、簡略化されて古の姿を失ひつゝあるのである。悲しむべき現象であり、遺憾の極みである。いまこれを記録に残して置かねばと念願するのは筆者一人のみではなからう。
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つまり、昭和の初めでさえ、ムラの行事は簡略化されていた。
そしてその流れは食い止める手立てがなく、だからせめて記録を残すことを念願した。

この事実を知り、また現在のムラ祭りの状況に照らしたとき、僕はすこし絶望しました。と、同時にこの先達の仕事ぶりに感動し、感謝しました。

そして今、ふつふつと湧き出ずるなにかを感じています。

ああ、そうだ。
ムラの祭りは「たましひの泉」なのだ。
これからますます色や形は変わるかもしれない。
しかし、この泉は枯らさない。
枯らしてなるものか。








その想いに終わりはない。またいつか会える。

2019年04月01日 | 雑感


奈良県内の桜はほぼ開花しているようですね。
朝晩はまだまだ冷え込んでいますし、天気もコロコロ変わって安定しませんが、なにはともあれ春です。



当社の桜もようやく開花しました。
当社の桜はさほど大きなものではありません。
体調(?)も万全とは言い難いように見受けられます。
しかしそれでもこのように毎年ここぞというときに花を咲かせ、枝葉を広げている様子はとても健気です。グッとくるものがあります。
今朝の月次祭のあと桜の足元を見ましたら、根元から新しい枝が生まれ、小さなつぼみを付けていました。感動しました。







「栄枯盛衰」と聞くと「猛き者も遂には滅びぬ」とばかり思いがちです。
しかし、もし衰えの内にも新たな芽生えというものがあるのなら、私たちもきっとまだまだいろんな事にチャレンジが出来そうです。
よーし頑張るぞ。がんばれ!まけるな!

…ということで、新元号も決まったことですし、今月も元気出していきましょうー。









また春が来るぞ!

2019年03月02日 | 雑感


自然の営みから心が励まされることがあります。

現在、境内は紅梅が花盛りです。
福寿草は天気次第で咲いたり咲かなかったり。
紫陽花も順調にツボミを膨らませています。

もし、今日が曇りや雨でもいつか必ず晴れるものです。

未来は心の持ちようで必ず明るいもの。
弥栄!春が来るぞ。

元気出していきましょう!!








お盆だからこそ「終戦の詔勅」を読んでみる

2018年08月13日 | 雑感
来る8月15日は終戦記念日です。
毎年のように感じることですが、お盆休みの最中に終戦記念日があることは奇しきことかなと思います。
今年も拝殿の賽銭箱の左側の木箱の中に「終戦の詔勅」の原文と現代語訳版の冊子を設置させていただいています。数に限りがございます。紙面の関係上、印刷の文字は小さくなっていますが、ぜひお手に取ってご覧いただければ幸いです。



100年にも満たない昔の話。でも今の私たちにつながる大切なお話です。
なぜ当時の私たちの祖先は、どのような思いで開戦に至ったのか。そして、どんな思いで終戦の日を迎えたのか。焼土に立ち、私たちの祖先はどんな思いで復興を成し遂げようとしたのか。
そのことに心をよせて、まずは追悼し、あの戦争で犠牲になったすべての御霊を慰めるべく、静かに手を合わせたいものです。



ちなみに拝殿の賽銭箱の右側のボックスに入っているのは、地元有志の方がお作りになった当社周辺地域の氏神様たちのパンフレット。
こちらもどうぞお持ち帰りください。










「土俵を塩で清めた」ことについて神主が考えたこと。

2018年04月06日 | 雑感
「土俵を塩で清めた」ことで、さらなる炎上が巻き起こっているようですが、僕は「土俵を塩で清めたこと」に限っていえば「何がアカンの?」と思いました。
神道的「穢れ」観からすれば、男だろうが女だろうが、権力者であろうがニートであろうが、祓うべきは「穢れ」であって、人ではないわけです。「存在そのものが穢れている人間」という考え方を僕は神道を学ぶうえで感じたことはありません。
そもそも神道における「穢れ」とは、おおざっぱにいうと「死」や「病」「血」など生命を脅かすような様々なイメージであり、それらにとらわれた状態を「気枯れ」と称したことに由来しています。
今回、清めの塩が撒かれたのは、M市長が、くも膜下出 血を発症されたことを「穢れ」ととらえたためで、決して市長が穢れているわけではないし、ましてや女性が土俵に上がったからでもない、と単純に神主は考えるわけです。
角界がなぜ土俵を女人禁制にしたのかわからないけれど、もしこれが神道的「穢れ」観の不幸な誤解から発生しているのだとしたら、神道にとっても不本意で残念なことです(たぶん)。
今後、角界がどのような方策をされるのか気になることです。