八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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「日本遺産」における「神武東遷」について。

2020年01月16日 | ブログ
日本国中各地で「日本遺産」(https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/)の取り組みが数年に渡って行われています。
「神武東遷」は宮崎市(宮崎県)と橿原市(奈良県)が主体となって、「日本遺産」認定活動が牽引されてきました。
宇陀市においても神武東征の伝承地が多いことから、「神武東遷」の認定活動について熱心に取り組んでいらっしゃいます。

先日、市の担当者様と八咫烏神社の氏子総代の懇談の機会がありました。
何度も「日本遺産」がらみの活動で国内の故地の関係者と親交を深めておられる担当者様によると宮崎市の盛り上がりといえば、それはそれはたいへんなものなのだとか。
どれどれ…。



た…確かにスゴイ…。

ところで、一般的にいうところの神武東征を「神武東遷」と言い換えている点について、様々な意見があることは僕も承知しています。
で、自分の立場を明確にしておくと「神武東遷」という表現方法について僕は賛成派です。
というより神職を志して勉強を重ねていく途上で、古事記を読み進めていくにつれ、神武東征という言葉にこそ違和感を覚えて、世の中に「東遷」という言葉が拡散する以前から、自ら「神武東遷」と脳内変換していました。
何故なら、いわゆる神武東征譚はこういうお話だからです。

― とある国の王子が現在よりも良い場所で国を統治するために旅に出る。旅の先々で仲間を集い、共に協力しあって困難に立ち向かい、まだ見ぬ理想の国ヤマトを歩き続ける ― 。

「建国神話」というよりは、ドラクエ的冒険物語といったほうがしっくり来る(世代的にも)。
また、神武天皇の旅の基本姿勢として「言向け和す(ことむけやわす)」が貫かれています。
つまり、「言葉で説いて人の心を和らげて穏やかにする」。
まずは言葉で語り、諭し、それでもだめな場合に戦闘するに至っています。
神武天皇が率いる軍は、敵を力づくで屈服させるような荒ぶる猛者どもではなく、むしろ行く先々の地域の人を説得し協力を得つつ、時には高天原の神様にも助けてもらいながらでないと先に進めないところから、素朴な小隊であったことも垣間見られます。
もちろん戦いの場面では、血なまぐさい場面が、あるにはあります。
しかし、そこに至るにはそれなりの理由があってのことであることが古事記をちゃんと読めば理解できるはずなんです。

漢字の意味合いとして「征」も「遷」もおおざっぱにいえば「ゆく」という意味です。
もちろん「征」の字は「征服」や「征伐」のイメージが先行することは知ってます。
でも、比較的まろやかな印象の「遷」も「左遷」という穏やかでない言葉もあるわけですから、似たり寄ったりです。
そして、いわゆる神武東征譚の始まり部分で、神武天皇ご自身を仰せられたように(『記紀』を読んだ人にはわかるはず)そもそもの発端は「遷宮」なのでした。
じゃ「神武東遷」のほうが、寧ろ理にかなってるんじゃねーの、というのが僕の意見です。

で、今「日本遺産」における「神武東遷」の取り組みが大詰めになってきているのだそうです。
実際のところ、当社の創祀については『記紀』に直接の記述があるというわけではありませんが、神武東遷の伝承の残る伊那佐山の山麓に鎮座し、かつ神武東遷の重要な働き手となった八咫烏を祭神として祀る神社であることから宇陀市の担当者様もおおいに注目してくださっているようです。

「日本遺産」において「神武東遷」が認定された暁に、実際どれくらい地域が盛り上がるのか、それは未知の領域です。
しかし、そのような歴史遺産を誇りをもち、他の地域の皆んなに語ることのできる「地元の人」が増えれば、宇陀市は益々発展できるかもしれません。
「日本遺産」における「神武東遷」。
僕も注目しています。