八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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台風について思う

2011年09月03日 | 雑感
今回の台風の影響は津々浦々、
広範囲にわたっているようですね。

奈良県下においても
勤め先のある桜井市と住みかある宇陀市とでは
雨風の量がだいぶ違うように思われました。

奈良県は「国中(くんなか)」と呼ばれる平野部と
「山中(さんちゅう)」と呼ばれる中南部の山間部とに
大別されることがあるのですが
自然災害の少ないといわれる奈良県下にあって
おおむね山中のほうに被害がもたらされやすいようです。

今朝の我がお宮の境内も
一日中、雨風が強かったせいで荒れ模様でしたが
今のところ特に被害はないようです。

大風のせいでしょう。
大きな杉の枝が本殿へと続く石段下に落ちていましたが
間一髪、拝殿の屋根に落ちることは免れたようで
ホッとしました。

ところで、台風で思い出したのですが
ニュースなどで気象予報士が台風を呼ぶとき
「台風○○号」っていいますよね。

外国では「キャスリーン」だの「カトリーヌ」だの
人の名前をつけていて
一時期、日本でもそういう動きがあったものの
結局、定着しませんでした。

これってなぜなんだろうと
毎年、台風が来るたびに思い続けていたのですが
この問題に関しては
この際、とりあえず、自分なりに
結論づけることにしました。

それは
「国民性の違いである」。

あまりも平凡な答えですが、まあ聞いてください。

想像してください。
我々はいつ、何に名前をつけるのでしょう。
いつ→「子どもができたとき」「ペットを飼うとき」
何に→「子ども」「ペット」
では、それ以外では?
「自慢の愛車」「お気に入りの道具」などなど。

名づけることによって
ただの犬は家族の一員になり
ただの機械は人生の相棒になり
それ故に、それらとの別れは、とてもつらい。
なぜ「つらい」と感じるのか。
そこに愛があるからです。
つまり、
愛なき名づけは、ただの「あだ名」です。

そして、
思うに我々日本人がものに名をつけるとき
目に見えない何かを与えているような気がします。
あるいは
ものに名をつけることは
その対象に魂をさずける儀式のようであり
また、人格すら与えているようにも感じます。

ましてや日本はいわずと知れた
「八百萬神(やおよろづのかみ)」の坐す国。
恐ろしい力を見せつける台風にすら
神の姿を見出したことでしょう。

だから、僕たちにとって
甚大な被害をもたらす台風に
「あだ名」まがいの名前をつけることは
ちょっと納得がいかないし、まかりならん。
「腑に落ちない話」な訳です。

よって、それは
「国民性の違いである」。

…あくまで個人的見解による
地味な結論でした…。