八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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秋のお祭りダイジェスト(後半編)

2015年11月25日 | お祭り
だいぶ日があきましたが、
秋のお祭りダイジェスト(後半編)です。

11月3日は当社の例祭の日です。
この日は朝から榛原比布の(旧)戸隠神社で太鼓神輿のお祓いでした。
戸隠神社は明治時代に八咫烏神社に合祀された神社で、
それ以来、例祭の日にはこの場所から太鼓神輿が御渡りされています。
その道中の安全祈願と修祓と座講のお祭りを兼ねた行事として執り行われている、
とは僕の個人的な解釈です。
比布の皆さんは、伝統行事の保存に熱い方々です。
たとえ少子高齢化が進もうともムラの伝統は絶やすまい
という情熱を折々に感じます。
僕も見習わなければ。




次に榛原三宮寺の三宝荒神神社。こちらも例祭です。
当日、祭りが初める前に「オト渡し」の儀が氏子さんたちによって行われます。
この「オト渡し」とは、トウヤさんの順番を占いによって決める儀式であるようです。
語義的には「お当屋渡し」が「オト渡し」と短縮された模様です。
今まで知らなかったのですが、ひょんなことから去年あたりから
この儀式に「偶然に」立ち会わせていただいております。
この行事がいつから行われてきたかは定かではありませんが、
江戸時代の正徳年間の記録が残されているらしいです。
この棒きれの中ほどにくくられているのは木綿の糸だそうです。
この棒が次のトウヤさんを占う道具となります。
この棒でもって、名前が書かれた和紙を丸めたものをチョイチョイとさわります。
するとアラ不思議。棒きれの糸の部分に和紙を丸めたのがひっつきました。




その和紙の丸めたやつに書いてある名前のひとが次のトウヤさんです。
早速、トウヤさん始め役員さんたちは次のトウヤさんのお宅まで
年季のはいった御幣と宮形をもって行き、
一同が再び神社に戻ってきて、ようやく祭りが始まります。
さて、あの「占い棒」(←勝手に名付けました)に
和紙の丸めたやつはなんでひっついたのでしょうか。
静電気のせいとも木綿のケバのせいともいわれていますが
、実際のところよくわかりません。
「父から『次のトウヤは神さんが決める』いわれて、
 子どもの頃あれ見せられて、びっくりしたわ。
 ほんまに神さんが決めはったって 」。
と、ある氏子さんは笑っておられました。
いや、やっぱりそれは神さんが決めはったんだと思いますよ、僕は。

そして、夕刻。
日も暮れかかる頃に八咫烏神社で例祭が執り行われます。
この例祭に際しては、
数週間前には神社の役員さんやトウヤさんたちによる境内の一斉清掃をはじめ、
御供(餅)米洗い、御供つき(餅つき)など、
たくさんの準備をたくさんの方々にお手伝いいただきました。
例祭とは、毎年のことなのですが、
始まる前にたくさんの人がお参りになっているのを目の当たりにすると、
ちょっとうるっときそうになります。
感謝感謝です。




さて、比布から太鼓神輿も到来して
賑賑しくなった境内に人が集まりだすとお祭りが執り行われます。
そんな例祭の様子をレポートしてくださっているページを後日、発見しました。
リンクしておきますので、どうぞ御覧ください。

http://deep.wakuwaku-nara.com/yatagarasu/

このリンクも指摘されていますし、
この伊那佐地区の行事を追いかけてくださっている
M田女史からも感想をいただいたことですが、
「お祭りの最中もすごいにぎやかなんですね」。

そうなんです。
実は神主になりたての頃は、
この祭りの有り様をあまり良いことに思えず、
正直、内心は憤慨していた時期もありました。
でも最近は、これはこれでいいのかな、と思い始めています。
誰しも「神社」の「祭り」というハレの日、非日常の場に集い、
テンションが高くなってしまうのはしょうがないです。
(そうでなくても子供は走り回るものです)笑
また、お祭りは、ある意味、「公」の性質のつよいものであるといえます。
それだけに神さまとそれを支える氏子さんたちや崇敬者の皆さんがともに楽しむ。
いいじゃないか。それはそれで素晴らしいことなのだ、と。

もちろん何でもアリではありません。
最低限のルールとマナーは必要です、絶対。
でも、それも神主の杞憂に終わります。

お祭りが終わり、御供まきも終えて、あれだけワアワアと楽しんだ後で、
きちんと襟を正してお参りし直しているご家族の方々を何組も目撃しています。
こんな時「神主冥利に尽きる」と感じ入ります。
神社の神主があれこれ教訓めいた偉そうなことを言わなくても、
神社にお参りになる方のほとんどは既に知っておられるのです。
それは知識とかそんな後付のものではなく、
日本人としてオギャアと生まれた時から、
心のずっと奥の方にお持ちなのです(たぶん)。

そんな私たちのことを神さまはずっと見てござる。

嬉しいことです。
有難いことです。