八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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福西 灌頂寺跡と北畠親房公終焉の地

2012年08月22日 | つれづれ
当社の西隣に福西という集落があります。
いにしえの時代、
天香具山の子孫に伊福部宿禰という方がおられましたが、
「福西」とは伊福部の郷の西という意味で、
ここは伊福部氏ゆかりの土地だと伝えられています。
この地には長谷寺・室生寺と並ぶ興福寺の末寺で
兵火にかかり消失した灌頂寺という寺院がありました。

相当な勢力を誇っていたという灌頂寺の寺域は広く、
昭和63年の発掘調査によると、11世紀中期から後期に創建され、
17世紀前期に廃絶されたと推定されています。
往時は「阿弥陀院、仙瑞院、蓮池、聖天、東坊、本願院」など
各所に院や坊が点在していたことが明らかになっています。
実際、近年まで「アミダイン」という字名が伝えられていました。

ところで、
南北朝時代後醍醐天皇を支えた南朝側の公卿・北畠親房公は、
ここ福西の灌頂寺でお亡くなりになったと伝えられています。

親房公の墓は、
室生寺境内や五條市西吉野町の賀名生の里など諸説ありますが、
「北畠准后伝」「南朝編年記略」の記述によれば、
宇陀市榛原福西が終焉の地との説が今日では一般的であるとされています。

親房公は皇統が二つに分裂したことを嘆き
『神皇正統記』を著したことでも有名です。
『神皇正統記』は灌頂寺の塔頭・阿弥陀院で完成させ、
後村上天皇の9月15日に薨去されたことから、
近くにある黄檗宗大光山蓮昇寺では
毎月15日には親房公を偲んで経があげられているそうです。

一昨年(平成22年)9月、
「北畠親房終焉の地」顕彰記念碑が建立されました。
伊那佐山とその麓が見渡せる高台の風光明媚な場所です。
かつて栄えた古刹の栄華と
往時とそう変わらないであろう自然環境。
北畠親房公の偉業も含め、
後の世に語り継いでいきたいものです。


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