やんまの気まぐれ・一句拝借!

俳句喫茶店<つぶやく堂>へご来店ください。

お話はハッピーエンド草の花 笠行信子

2017年10月16日 | 俳句
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笠行信子
お話はハッピーエンド草の花
お話はめでためでたのハッピーエンド。公園の片隅には名の知れぬ草の花が咲き誇っている。その昔有志の方などで紙芝居とか本の朗読会があったが今はどうなのだろう。話の大方は起承転結のハッピーエンドが粗筋であった。今は児童もパソコンやスマホのゲームで遊ぶ時代らしい。生の人間との交流感が無いのがどこか淋しい。そう言えば私の長屋に黄金バットの紙芝居名人がいた。今日見掛けた紙芝居が何とも懐かしい。:朝日新聞『朝日俳壇』(2017年10月9日)所載。

このみちのこのしづけさにいでし月 万太郎

2017年10月15日 | 俳句
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久保田万太郎
このみちのこのしづけさにいでし月

月がとっても青いから遠回りして帰ろう♪そんな歌が口を突いて出てくる月の夜である。何時ものこの道を何時もの様に歩いている。何故か辺りはしんと静まっている。我影を見ては夜空を見上げて歩けば夜気が肌に気持ち良い。普段から家で酒を食らってテレビを見ているお父さんもたまには、「名月や池を巡りて夜もすがら」も良いのかもよ。:彩図社『名俳句一〇〇〇』(2006年11月10日版)所載。

秋冷の少年紙の匂いする 鈴木映

2017年10月14日 | 俳句
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鈴木 映
秋冷の少年紙の匂いする
めっきり涼しくなってきた。統計上今日より25℃以上の夏日にはならないと言う。朝窓を開けると冷えを感じる。新聞配達を終わった少年だろうか紙の匂いをさせて通過してゆく。散歩の犬も快適なのか足取りも軽い。その昔新聞配達は少年のバイトの定番であった。今では立派な大人の仕事になっているようだ。朝の空気が心なしか美味しい。:雄山閣『新版・俳句歳時記』(2012年6月30日版)所載。

息詰まりさうな恋なり金木犀 柳澤茂

2017年10月13日 | 俳句
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柳澤 茂
息詰まりさうな恋なり金木犀
二人の恋は息が詰まりそうに円熟している。折りしも金木犀の真っ盛り、こちらも息が詰まりそうな香りを放散させている。胸掻き毟るような二人の夜が更けてゆく。話は逸れるが結婚は恋愛ですか?お見合いですか?と聞かれる事がある。最近は公的にも私的にも出会いサイトなるものがあったりしてより機会も増えている。が、また独身主義で一人暮らしが楽だと言う者も多い。コンビニ、スーパー、レストランと生活の不自由もなさそうである。でもなあ、孤独の淋しさに襲われることは無いのだろうか。余計な事でした。:俳誌『はるもにあ』(2016年11月号)所載。

行くほどに径明るしや紅葉晴 赤猫

2017年10月12日 | 俳句
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赤猫
行くほどに径明るしや紅葉晴
行楽シーズン到来。遠くも佳し近場も佳しと紅葉情報に出かける事になる。天気も上々まさに紅葉晴れである。脇にそれた古径にも明るい日差しが注いでいる。深呼吸すればオゾンが美味しい。茸を目指すも一句吟ずるも心のままである。仲間の中には晴れ男晴れ女なる人種がいて今日の天気を自分の手柄と言う者あり。私は雨男なので晴れ女の愚妻に着いて出るが得策と心得ている。:『つぶやく堂俳句喫茶店』(2017年10月8日)所載。

新涼や父の形見の竿を振り 鶴巻和男

2017年10月11日 | 俳句
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鶴巻和男
新涼や父の形見の竿を振り

涼しさが秋に入って肌に感じられる様になった。初秋の空の下釣りに出る。竿は父の形見の和竿である。川であれば落ち鮒とか落ち鮎といったところ。河口の鯊釣りもこの時期佳境を迎える。昔和竿の伝統工芸師と江戸前鯊釣りの会で船を仕立てたことがある。漆を塗る前の竹竿の試し釣りであったが全舟入れ食いの釣果であった。今でも七不思議と言われるのは両側に座った名人が入れ食いで中の私がぜんぜん釣れなかったのである。私の周辺の鯊を見事に掬い取ってしまった名人の技には脱帽以外なかった。往時茫々。:俳誌『百鳥』(2016年12月号)所載。


コスモスやホーム短き山の駅 中野順子

2017年10月10日 | 俳句
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中野順子
コスモスやホーム短き山の駅

秋の旅に出た。降り立った駅はひどくホームが短かった。そしてコスモスが大きな群れで咲いていた。眼前には大きな山が立ちはだかっている。山に囲まれた小さなホームのコスモスに囲まれて日常のしがらみがすっ飛んで純粋な自分を取り戻す。日常から非日常へワープした小さな驚きの中に私が立っている。ひと吹きの風が通り抜けた。:俳誌『春燈』(2017年1月号)所載。

うかうかと歩けば我も月の人 山辺青民

2017年10月09日 | 俳句
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山辺青民
うかうかと歩けば我も月の人

電灯の無い昔は夜が暗かった。月明りに誘われて外に出て見る。夜空に浮かぶ名月にうかうかとその辺りを歩き始める。川べりの柳に風を貰っていると月を見上げる人がちらほらと通り過ぎてゆく。我もまた月見る人よと心が通うような親しみを覚える。月は時代と空間を越え人の目を慰める。因みに青民は安政から慶応の時代に生きた俳人である。:『俳句人名辞典』(金園社)所載。

読まれずに全集並ぶ秋深し 新木孝介

2017年10月08日 | 俳句
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新木孝介
読まれずに全集並ぶ秋深し

書棚に読まれずに置かれた全集が並んでいる。夜が日毎に長くなって秋の深まりを実感する。書棚に厳かに並んだ書籍の姿はまるで家具に様にどっしりと座っている。そう言えば通勤時代の文庫本も並んでいる。灯火親しむ読書の秋、どれか一冊でも手に掛けてみようか。ノーベル賞のカズオ・イシグロ氏はここには無い。:俳誌『ににん』(2016年秋号)所載。

羯諦羯諦札所二番の蟬時雨 山田真砂年

2017年10月07日 | 俳句
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山田真砂年
羯諦羯諦札所二番の蟬時雨
般若心経の一説「ギャーテイギャーテー」の声が蝉時雨の姦しさに重なる。ここは巡礼の札所二番の寺である。坊主の声も蝉の声もおなし発声に聞こえるから有難さの二重奏といったところか。この観音霊場巡りの札所は各地にもあるが、本場四国巡礼なら二番は極楽寺だそうだ。いくら蟬様のお経が在り難いと言っても「馬の耳に念仏(やんまの目にお経)」で小生には全くご利益はなさそうである。:俳句雑誌『角川・俳句』(2017年10月号)所載。

秋天を秋天らしく描く雲 白根純子

2017年10月06日 | 俳句
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白根純子
秋天を秋天らしく描く雲
空を見上げると雲が隊列をなして浮かんでいる。ああもう秋なんだなあとあらためて思う。夏の入道雲とは違う、秋の雲である。且て石川啄木が「雲は天才である」と言っていたが誠にその造形の才は見事と言うしかない。鰯雲、筋雲それにひつじちゃん雲。でも今夜はお月様を見させてね。:朝日新聞『朝日俳壇』(2017年10月2日版)所載。

葡萄一粒一粒の弾力と雲 富沢赤黄男

2017年10月05日 | 俳句
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富沢赤黄男
葡萄一粒一粒の弾力と雲
人間の肌に気持ち良い気候となった。葡萄がたわわに実り空にはのんびりと雲が浮かんでいる。手を触れれば葡萄の一粒一粒の弾力が伝わってくる。生きている実感をしかと噛み締める。この広い地球の上の何処かで今日も戦禍に苦んでいる人々がいる。銃弾の乱射に見舞われた悲惨な報道も飛び込んでくる。見渡せば自らの周辺の何と平和な事だろう。こんな時間が何時までも続いて欲しいと願う今日この頃である。:彩図社『名俳句一〇〇〇』(2006年11月10日版)所載。

新蕎麦や月日の回る水車 小川一路

2017年10月04日 | 俳句
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小川一路
新蕎麦や月日の回る水車
食欲の秋、新蕎麦の季節となった。蕎麦屋の店先に「新蕎麦入りました」の張り紙が出れば思わず暖簾を潜ることとなる。通ともなれば蕎麦掻き又は汁を付けづに蕎麦自体を味わうと言う。私はざる蕎麦に汁たっぷり派である。まずは日本酒を山葵で一本、蕎麦を食した後からは蕎麦湯という段取り。さらに信州とか本場の蕎麦をその土地で食すれば味もまた格別なものとなる。巡る月日は水車の様に回転してゆく。ことことこっとんことことこっとん粉を挽く。:雄山閣『新版・俳句歳時記』(2012年6月30日版)所載。

あきかぜや劇場裏の出入口 中村朋子

2017年10月03日 | 俳句
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中村朋子
あきかぜや劇場裏の出入口
熱演する舞台、客席も楽屋もその熱気が充満している。劇場裏の出入り口には裏方や出番に時間の有る役者が涼を求めて顔を出す。ちょうど風の通り道になっているからだ。わがつぶやく堂の前身は新宿コマ劇場横にあって名前を「丘」と言った。よく役者や作家の先生が一息つきに来ていた。当時愚妻は小学生で両親から離れるのが嫌で店の中で遊んでいたと言う。小いママと言われ可愛いがられたと言う。入口から入る秋風が心地よい場所だったらしい。コマ劇場も丘も今は無いが当時のマッチが数個保存してある。:俳誌『春燈』(2016年12月号)所載。

児の迎えあと追いあと追い曼殊沙華 れんげ

2017年10月02日 | 俳句
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れんげ
児の迎えあと追いあと追い曼殊沙華

「今から曼殊沙華のかいまを通り、チビの迎えです。」とわが命とも思うわが子を迎えにゆく。曼殊沙華が咲き並ぶ道。思えば様々な事があったがこの児が居るので懸命に生きてきた。目の前を飛ぶが如くに走るわが児が眩しい。その光を追って追って今日も生きて行く。:『つぶやく堂俳句喫茶店』(2017年9月28日)所載。