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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「厳しい残暑!小さい秋が待ち遠しい!」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はもう8月の29日です。秋の涼しい日を思い浮かべますが、朝から太陽がギラギラ照って今日も残暑が厳しくなりました。
せめて気分だけでも涼しい秋の日を想うように願い、「小さい秋」という言葉について書いてみたいと思います。
「小さい秋」とは台風が幾つか過ぎてから来る秋のことのようです。そして「小さい秋」は落ち葉の下や森の中に隠れているのです。そっと吹く風や紅葉した木の葉にも。
秋が来るとと毎年、「小さい秋見つけた」という歌がラジオやテレビから流れて来ます。そして昔は路地に子供達の「小さい秋見つけた」の歌声がしました。そうして気分爽快な季節になったことに幸せを感じます。
皆様もこの歌をご存知と思いまが、次の動画にこの歌があります。

『小さい秋見つけた』、【作詞】サトウハチロー、【作曲】中田喜直
1.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   目かくし鬼さん 手のなる方へ
   すましたお耳に かすかにしみた
   呼んでる口笛 もずの声
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

2.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   お部屋は北向き くもりのガラス
   うつろな目の色 とかしたミルク
   わずかなすきから 秋の風
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

3.誰かが秋をみつけた 小さい秋をみつけた
   昔子供の頃に見た色あせた風見鶏は
  とさかにハゼの葉が引っかかっていたのを覚えている
  ハゼの葉は赤くて夕日のような色をしていた
   私は小さい秋をみつけた
   小さい秋 小さい秋
   小さい秋 見つけた

この歌は1955年にNHKの特別番組『秋の祭典』の楽曲の1つとして中田喜直が作曲しました。1962年にキングレコードから発売されました。

小さい秋とは何を意味するのかは分かりません。
詩人のサトウハチローの心象にある秋のイメージなのでしょう。
私の小さな秋のイメージに浮かぶ写真を2枚示します。
秋の栗や柿の写真の出典は、https://colocal.jp/topics/lifestyle/shodoshima/20150928_54427.html です。

この詩はサトウハチローが木の紅葉する情景を見たのが作詞のきっかけとなったそうです。
自宅の文京区弥生の庭に写真に示したような「はぜの木」が植えられており、この木の紅葉する情景を見たのです。
このハゼの実の写真の出典は、https://iyashi.midb.jp/detail/4103?id=4103 です。
少し説明が理屈っぽくなりましたが、「小さい秋」は秋の気配を感じるものなら何でも良いのです。
道端にあるススキの穂でも野原に何気なく咲いている野菊や萩の花でも良いのです。あるいは自宅の庭の片隅に隠れるように咲いている彼岸花でも良いのです。

今日は「小さい秋」を想い浮かべながら涼しい日々が来るのを願いたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「豪華なホテルの写真を見ても戦後の食料難の時代を忘れないようにしよう!」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
前の記事、「思い出のホテル(最終回)箱根の宮ノ下のクラシックホテル、富士屋ホテル」 の写真を見ても戦後の食料難の時代を忘れないようにしよう!と自分を戒めています。
戦後はひどい食料難の時代でした。餓死する人も絶えませんでした。飢餓の時代だったのです。
その飢餓の時代には不味いカラス以外は野鳥も捕って食べました。鴨や雉や山鳥は勿論、罰当たりの人は神社の鳩まで捕って食べました。鳩はフランス料理で使われるくらい美味しいそうです。
美しい白鷺が全国で見られるようになったのは食料難の時代が過ぎてからです。
私もシジュウカラやメジロやスズメを焼き鳥にして食べた強烈な経験があるのです。それは実に美味しいものでした。特にスズメは美味しかったのです。

豊かで綺麗なホテルの写真を見るたびに戦後の食料難の時代を思い出します。
===参考資料==========================
「1000万人が餓死するといわれた終戦直後の日本」
https://president.jp/articles/-/60700?page=2

終戦直後の食料難である。このとき、供給面では、米は大凶作だといわれた。東京・深川の農林省の倉庫には、東京都民の3日分の米しかなかった。多くの人が海外から引き揚げてくるので、需要は増加する。輸入はゼロである。戦前は、朝鮮や台湾という植民地からの米輸入があったが、それもなくなった。巷間では1000万人が餓死するといわれた。
米、麦、イモなど多くの食料は政府の管理下に置かれ、国民は配給通帳と引き換えに配給公団から食料を買った。配給制度である。ただし、このときは、アメリカからの穀物援助で糊口ここうをしのいだ。また、1945年は、農林省の統計が予測したほどの不作ではなかった。
写真は1946年2月に新橋にあったヤミ市です。ヤミ市を仕切っていた関東松田組の名前が見えます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E5%B8%82 )