goo blog サービス終了のお知らせ 

後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

我が人生最後のクラス会

2015年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様の卒業した学校には同窓会や同期会やクラス会があると思います。
若い間はあまり気にしないで出席したり欠席したりします。しかし定年後になると暇もあり、その一方、昔が懐かしくなりよく出席するようになるのが普通ではないでしょうか。
しかし高齢化が進むと出席が大変になります。そこで「これでお終いにする」という決議がでます。
昨日、東京駅の地下の料亭で大学の最後のクラス会がありました。中学校や高等学校の同期会も昨年終わりましたので、昨日の大学のクラス会が我が人生最後のクラス会になりました。
少し悲しいです。しかし過去のクラス会に律儀に出席して来た私にとっては何か達成感もあり幸せな気分でした。そして出席するのが億劫になりだした頃合いでもあったのでホットしたのも事実です。
若い方々は最後のクラス会は悲しいものだと想像されるでしょうが昨日の会合は笑顔があふれ、実に楽しい会でした。出席した同級生も自分の人生に充実感を味わいながら楽しそうでした。これも老人の心の安らぎです。自然の摂理です。
我々、30人ほどの同級生は今から59年も前の1956年に東北大学の工学部の金属工学科に進学し、その教室で初めて会いました。入学したのは1954年で2年間の教養課程の後に初めて専門課程に進学したのです。その金属工学科の赤レンガ建ての建物は現在でも仙台の片平丁にあります。下の写真の真ん中に写っています。

この赤レンガ建ての3階の教室に1956年に集まったのは30名程でした。当時は戦後の復興もまだまだで外食券食堂が普通で、九州から受験に来たT君は旅館に出す米を背負ってきたのです。当時は米を出さないと食事が出なかったのです。
そして1958年に卒業し、みんなはそれぞれ鉄鋼会社、機械製造会社、鋳物会社、非鉄精錬会社、大手商社、日本原子力研究所などに就職し日本の工業技術の復興と革新に一生を捧げたのです。欧米の先進的な技術を導入し、それを改良して日本の高度成長に努力したのです。
このように忙しかったので現役の間のクラス会は数年に一回ぐらいの割合でしていました。
箱根や熱海や湯川原や松島や盛岡などで開催したものです。そして定年後は2年毎に開催してきました。
30人ほどの同級生でしたが物故者があり現在26名になりました。昨日の「最後のクラス会」には12名の出席があり、14名が欠席でした。それぞれ病気だったり妻や家族の看病で出席できないという連絡です。同級生はほぼ80歳です。もうそろそろお終いにしようという事になったのです。これも人生と皆がさばさばと達観しています。その姿を見て私も達観できました。これが「最後のクラス会」の大きな賜物でした。
下に1954年から1958年の東北大学在学中に同級生たちがよく散歩した大学の近辺の風景写真を示します。写真は2012年の中学校の同期会で仙台に行った時撮ったものです

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
上は大学のそばにある御霊屋橋です。伊達正宗の霊廟へ行く橋なのでそのような名前がついています。

上は広瀬川に沿って向山にあがる道で鹿落坂(ししおちざか)です。

上は広瀬川の評定河原橋から見た青葉城跡のある山です。

上は青葉城跡から見下ろした伊達正宗の霊廟のある経ケ峰です。

上は青葉城跡から見下ろした現在の仙台の中心街です。

秩父高原牧場の「天空のポピー」の写真をお送りします

2015年05月16日 | 写真
知人から頂いた写真です。埼玉県皆野町、東秩父村にある秩父高原牧場の1500万本のシャーレーポピーの写真です。お問い合わせは皆野町役場(電話0494-621-1461)へどうぞ。
尚、場所などの案内は、http://www.tenku-poppy.jp/ をご覧下さい。









体験してわかった西洋文化のいろいろ(1)帆船文化の奥深さ

2015年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人にとって西洋文化はなかなか理解できない文化の一つです。
これに対して中国文化は同じ漢字文化圏なので比較的理解しやすい文化です。そしてインド文化も仏教国の日本にとっては親しみを感じます。多神教のヒンズー教も何となく分かるような感じがします。
西洋は遥かシルクロードのかなたです。アメリカも広大な太平洋のかなたです。遠方にあるせいもあり、なかなか親近感が感じられません。
それだけに一層強い憧れを感じます。西洋文化は私の一生の憧れでした。
しかし、この長い人生でいろいろな経験をしたおかげで西洋文化の幾つかを深く理解出来たのです。本を読んだだけでは絶対に理解出来ない深い理解が出来たのです。体験が理解を深めてくれたのです。
その幾つかの西洋文化を連載風に書いて行きたいと思います。
今日はヨットの趣味を25年間続けたおかげで、「西洋の帆船文化」の奥深さが理解出来たことをご紹介したいと思います。
それは日本の北前船などの帆船文化とは全く違う世界なのです。決定的な違いは西洋の帆船は風上45度まで登れることです。もう一つの違いは大西洋や太平洋のような大洋を航海出来ることです。日本の北前船はこの両方とも出来ませんでした。
それではまず私の乗っていたヨットを下の写真の真ん中に示します。

係留していた場所は霞ヶ浦のJR土浦駅から徒歩5分の岸壁です。車をヨットの前まで入れることが出来たので食料や寝具の積み込みに便利でした。

上の写真は土浦港の中を帆走している様子です。風を受けて斜めになりながら風上45度に向って走っています。しかしもっと強風になっても絶対に横倒しにならない構造になっています。末尾の参考資料の構造図のように船底に部厚い重い鉄製のキールがついているので横倒しにならないのです。

上の写真はこのヨットの内部についているキャビンの中です。二口コンロと流しと調理台が付いていて食事の準備が出来ます。トイレは電動水洗式です。電燈も小型ストーブもついているので冬の夜でも泊まることが出来ます。
このヨットの長さは26フィート(8m弱)ですがこの構造でGPSと海洋無線をつければ世界一周も出来るのです。
昔、堀江青年が日本人として初めて太平洋を横断した時使ったヨットは私のヨットより小さい船でした。
このような現在のヨットは、15世紀にポルトガルで初めて遠洋航海用の帆船が建造されて以来の帆船文化の粋が過不足なくきっちり詰め込んであるのです。(参考資料をご覧下さい)
(1)縦長の三角形の帆のおかげで風上45度まで登れる。(2)重いキールのおかげで絶対に横倒しにならない。(3)何日でも生活できる快適な船室がある。この3つの性能のおかげで大航海時代が始まったのです。
このようなヨットの構造のおかげで何度も荒れる霞ヶ浦で命拾いをしたような体験をしました。急に強風が吹くとヨットは60度以上傾きます。メイン・セイルの端が水面に着くのです。湖面は風波で白い牙をむいています。怖いです。しかしジット我慢です。すると風が弱まる瞬間が来ます。すると重いキールのおかげでヨットが垂直に立ちます。間髪を入れずにマストにしがみつきメイン・セイルを引っ張り下ろします。降ろしてしまえばもう大丈夫です。落ち着いてエンジンをかけて荒れる湖水を横切って港へ帰るのです。何度もそんな経験をしました。
その度に不思議なことですが西洋人に自分の命を助けてもらったような気がするのです。もっと正確に書けば西洋人の知恵によって助けられたのです。
そこでもっと大きな帆船の帆船日本丸も訪問し、船長さんに詳しい話を聞きました。その船長さんは、「大型帆船は西洋文化そのものです」と言ったのです。
そして石巻にある大航海時代の復刻帆船、サンファン号やハウステンボスにある復刻帆船も訪問しました。
日本では18世紀のイギリスの産業革命以後の西洋の科学や技術を称賛しますが、それ以前の帆船文化も素晴らしいのです。ヨットの趣味を持ったおかげで西洋の帆船文化の深さが理解出来たのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=== 西洋式帆船とは==================
以下は、http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Jeddah-4-5.html#5.3 からの抜粋です。
最初の遠洋航海用の帆船のキャラック船(carrack)とナオ船(nao)
キャラック船(Carrack)は15世紀にポルトガル(Portuguese)によって地中海で開発された最初の遠洋航海用の帆船(the first proper ocean going ship)である。3から4本のマストを備え、複層式の船尾楼(aftcastle)、船首楼(forecastle)を有し、高く丸みを帯びた船尾(stern)と船首(stem)に突き出した帆柱状のやりだし(bowsprit)を持っている。前檣(foremast)と主檣(mainmast)に横帆を張り(square-rigged)、後檣(mizzenmast)に大三角帆(縦帆)(lateen-rigged)を張るのが一般的であった。
横帆(large square sail)は大きな推進力を与え、大三角帆(lateen sail)は風上への航行を可能にした。更に船首と船尾の小さめの帆は操船性を向上させた。これら4種類の帆の組み合わせでキャラック船(Carrack)は大きな順応性を持ち、高度な帆走が可能であった。
キャラック船(Carrack)は全長が30mから60mで全長と全幅の比は3:1とずんぐりして丸みを帯び、排水量は200トン以上で中には1500トンのものもあった。高波(heavy-sea)でも船体の安定を保つだけの巨体を持ち、嵐の間でも帆を縮める事で帆走を続けられた。但し、大きな上部構造を持つキャラック船(Carrack)だと強風下では転覆しがちであった。
キャラック船(Carrack)は外洋(high sea)での荷物運搬用(beast of burden)に使われ、「完成された運搬船」として長期航海での大量輸送に適した広い船倉を持ち、乗務員、糧食(provision)および積荷の為の空間を提供した。積荷と糧食を運搬する能力は航海途中の港に関係なく、もっとも効率的な航路を選択できる航続力を持っていた。
キャラック船(Carrack)の安定した甲板は大砲の据付を可能にし、効率的な砲台を作れた。東インド諸島(East Indies)ではしばしば問題であった小舟による攻撃に対して明らかに難攻不落(impregnable)であったし、ポルトガル人(Portuguese)がカリカット(Calicut)君主(Zamorin)(Samoothiri Raja)の様な不従順な支配者を納得させるのに大いに役立った。
キャラック船(Carrack)は大航海時代を代表する帆船となり、15-16世紀にはポルトガル(Portuguese)とスペイン(Spain)で盛んに建造された。スペイン(Spain)で作られたものはナオ(Nao)と呼ばれる。ナオ(Nao)はポルトガル(Portuguese)のナウ(Nau)で単に船と云う意味であるが、大型で船体中央部に甲板があるものが多い。
クルザーヨットの構造

歴史の曲がり角にある日本・・・安保法案の閣議決定

2015年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の安保法案の閣議決定と昨日の安倍総理の40分にわたるテレビ会見をみると、日本は歴史の曲がり角にあることがしみじみと理解できます。
自衛隊に関して10もある現在の法律を一括して改正してアメリカとその同盟軍の後方支援を地域を限定しないで全世界に自衛隊を派遣して行えるように改正するのです。
そしてアメリカ軍が中国や北朝鮮から武力攻撃を受けたら、場合によっては自衛隊も反撃できるように改正するのです。その上、国連のPKO部隊ならどこの国の部隊でも援助や救出が出来るようにしたのです。
この改正によって軍事同盟の「北大西洋条約機構」に加盟しているドイツの活動とほぼ同じになったのです。
ですから日本はドイツのような普通の独立国に近づいたという理解も出来ます。
これまで自衛隊の関する法律は10もありその運用は複雑でした。この自衛隊法には専門用語が多くて理解困難だと言われています。従って今回の改正案も専門用語が多くて分かりにくいと言われています。
しかし簡略に言えば、安保法案を一括して改正して、自衛隊をもっと自由に使い国際紛争の解決に貢献させようという改正なのです。そして自衛隊の活動は日米安保条約によってアメリカを支援することを重視しますから、アメリカの仮想敵国のロシアと中国が相手になる傾向があります。そしアメリカが敵視がしているイスラム過激派も対称になります。
これが安倍総理の言う積極的平和主義なのでしょう。
先のアメリカ議会における安倍総理の演説と今回の安保法案の閣議決定を考えると日本は戦後70年目にして歴史の曲がり角をまがったとしみじみ感じざるを得ません。
思えば戦後70年、日本はアメリカ軍に守られてきました。その歴史を変えて日本もアメリカと可能な限り対等な独立国として共同で日本の安全を守るという国家方針に変えつつあるのです。
今回の改正の意味は国際的に見て日本が普通の独立国に近づいたということになります。
日本には米軍基地があります。ドイツにも米軍基地があります。しかし日本とドイツの違いは簡単です。アメリカのベトナム戦争でも湾岸戦争でもドイツは軍隊を出して血を流しました。日本はPKO活動以外は自衛隊を出しません。この戦後70年の歴史を変えようとするのが安倍内閣なのです。
安倍総理が就任早々。「戦後レジームからの脱却」を高らかに宣言したのですが、今、その意味が明らかになったのです。戦後に、アメリカだけに守って貰っていた日本の安全を日本自身もアメリカと対等に協力して守りますという結意の表明だったのです。
その意味をアメリカ側が誤解して「戦後のアメリカの占領政策の避難」と理解したのです。当然アメリカは露骨に不快感を表明します。するととたんに安倍総理は「戦後レジームからの脱却」いう言葉を一切使わなくなりました。
さてそれはそれとして、今回の安保法案の閣議決定で日本の安全は本当に守られるのでしょうか?
世界が経済的にこれだけ深い交流をしている現在は大規模な戦争が起きる可能性は少ないと思われます。しかし比較的に小規模な戦争はあちこちで頻繁に起きています。それに対して要件がそろえっば自衛隊も行きます。犠牲者が出ると覚悟すべきではないでしょうか?
日本が戦争に巻き込まれる可能性が増えたと考えるのが自然な理解ではないでしょうか?

このような種々の問題に対して様はどのようにお考えなのでしょうか。
本当に難しい問題です。今日の挿絵の写真は先週訪れた八ヶ岳の松原湖の風景写真です。

今日はこのように山紫水明の美しい日本がいつまでも平和であるように心からお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







花屋さんにはヒマワリ、ユリ、アジサイなどの初夏の花が並ぶ季節になりました

2015年05月14日 | 写真
庭の雑草を取り、柿、梅、桜、椿、槿、ベイリーフの木の枝を下す仕事を昨日から始めました。兎に角、こんな狭い庭にいろいろな植物が生えていることに毎年驚いています。
剪定用のハサミや雑草を切る鎌を買いにホームセンターへ行きました。
その花売り場を見ますとヒマワリ、ユリ、アジサイなどの初夏の花が並んでいます。いつの間にかそんな季節になったのです。時のたつのは早いものですね。写真をお送りします。







地中海で中国海軍とロシア海軍が共同軍事演習・・・世界の歴史の転換か

2015年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には平和が続き毎日楽しく暮らしている人も多いようです。しかし、この平和はいつまで続くのでしょうか?
特に心配なのは、最近、中国が大きく軍事力を伸張させ、その海軍が太平洋の制海権を手に入れようとしている情勢です。その延長で中国は海軍の艦隊を地中海へ派遣し、ロシア海軍と共同軍事演習をしつつあるのです。
中国の艦船が黒海にあるロシア海軍基地まで行ってロシア海軍と合流し、地中海へ出て射撃練習や共同海上戦の演習をするというのです。
これは中国にとっては初めてのヨーロッパ地域への遠征になります。地中海で戦闘行為が出来ることは大西洋でも同様の軍事行動が出来ると考えられます。
今迄、ヨーロッパの諸国は中国と貿易はしていましたが中国の軍事力を無視して来たのです。それが急に地中海へ遠征して来たのですからNATO軍事同盟国は脅威に感じるのが自然です。
今後、中国はますます軍事力を増大して航空母艦を含む艦船を太平洋や大西洋にも展開させるに違いありません。
その中国の意図は南シナ海の南沙諸島周辺の岩礁を埋め立て軍事基地を作っていることでも明白です。
このように国際情勢の憂慮すべき変化は確実に進行しているのです。
したがって、日本を取り巻く東アジアの将来は、中国とロシアと北朝鮮のグループと、日米に韓国を中心にしたベトナムやフィリッピンなどのグループの軍事抗争になるという情勢です。
これに関連してヨーロッパ諸国はロシアを中心にしてベラルーシや中国の軍事的グループと対峙するようになると思われます。
中国が世界の歴史を経済力と軍事力の両方で変える可能性が大きくなって来たのです。
その一方で過激派の跳梁している中東ではスンニ派の諸国とシーア派の国々が入り乱れて終わりの無い戦争をしています。
アメリカもロシアも、そして中国も傍観するだけになるでしょう。湾岸産油国だけをアメリカは防衛するでしょうが、イスラム諸国同志の戦争には介入しない方向に動いて行くと思われます。
こんな国際情勢の変化を受けて安倍内閣は自衛隊関連法を改正して日本の安全を守ろうとしています。この自衛隊関連法を改正が将来の日本にとって吉と出るか、凶となるかは難しい問題です。
世界に運命というものがあるとすれば、日本の運命はどうなるのでしょうか?
中国が強大になっても実際に軍事力を発動出来ないような国際環境を作ることが非常に重要でことではないでしょうか。
写真には地中海共同軍事演習などを相談した中国の習主席とプーチン大統領の写真を示します。そして続いて中国の航空母艦の写真を示します。
三番目の写真は南沙諸島の位置を示しています。最後の四番目の写真は岩礁を埋め立てた様子を示しています。
参考資料には、「中国とロシアが地中海での合同軍事演習」と「アメリカ軍の南沙諸島周辺への艦船派遣」に関する2つのニュース記事を示しています。
何故か国際情勢が風雲急になっきたような気がする昨今です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料=================
中国とロシアが地中海で合同軍事演習 欧州海域では初めて
http://www.sankei.com/world/news/150511/wor1505110037-n1.html
 インタファクス通信によると、ロシアと中国は11日、地中海で合同演習「海上協力-2015」を開始した。中露両国が欧州海域で合同演習をするのは初めて。
 演習には両国から約10隻の艦艇が参加。ロシアのアントノフ国防次官は公海における艦船往来の安全保護が目的としている。次官は「第三国との対立を想定したものではない」とも強調した。(共同)
アメリカ軍が南沙諸島周辺への軍機・艦船派遣を検討!中国の人工島周辺、12カイリ以内に派遣検討か!?http://saigaijyouhou.com/blog-entry-6471.html
アメリカ国防総省が中国などの活動が活発化している南シナ海の南沙諸島周辺に米軍の航空機や艦船を派遣することを検討していると発表しました。カーター国防長官は「米軍機・艦船派遣を含めた選択肢を要請した」と述べ、中国が岩礁を埋め立てて人工島を作った場所の付近に派遣すると明らかにしています。
具体的には中国の人工島から12カイリ以内に海軍艦船や偵察機を派遣すると見られ、中国軍とアメリカ軍が南沙諸島で睨み合う事になるかもしれません。
一方で、中国が度々侵入して来ているフィリピンは、国境沿いの取材許可を出しました。中国が建設を進めている軍事人工島はフィリピンの真正面にあることから、フィリピン政府は国境沿いの警備を強化するなどして警戒を強めています。
今回の公開も中国に対する牽制である可能性が高いです。中国側はフィリピン政府に公開した事を抗議しました。







山藤の花の写真をお楽しみ下さい

2015年05月13日 | 写真
先週の土曜日に甲斐駒岳の麓の小屋の周囲で撮って来た写真です。
庭に植えてある藤と全く同種ですが、山では藤棚を作る人がいませんので藤の蔦はクヌギやコナラやカシワの木々に絡みつき、その梢まで登って花を咲かせます。
遠方から見ると藤の木があってその枝に花が咲いているように見えます。なんとなく夢幻の世界の花のようです。この風情が好きで季節になると山林の中の小屋の小川の周囲の藤の花をしみじみ見に行きます。
最後の写真がその小川の様子です。
山藤の花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









旅の趣味(4)八ヶ岳、清里の清泉寮に泊まる

2015年05月13日 | 旅行記
旅にはそこはかとない目的があります。今回、軽井沢に泊まり、小諸の藤村記念館を訪れ、そして曾遊の松原湖をめぐり、二日目には八ヶ岳高原の清里にある清泉寮に泊まりました。
これにはかなりはっきりした目的があったのです。
先月の4月中旬にキリシタンの美しい教会群のある長崎の五島列島を旅しました。八ヶ岳高原の清里にある清泉寮に泊まったのはその続きのようなものでした。
清泉寮はアメリカの聖公会の宣教師のポール・ラッシュによって昭和13年に作られた宿泊施設です。ポール・ラッシュはやはり聖公会のウィリアムズ主教によって1874年に作られた私立学校の後身にあたる立教大学の教授をしていたのです。
ところが日本の真珠湾攻撃が始まった戦争でそのポール・ラッシュは敵性外人としてアメリカへ強制送還されたのです。日本へ再び行きたい彼はアメリカ軍の将校になりマッカーサーの占領軍の一将校としてやって来たのです。そして清泉寮を復興し、清里地域への開拓民の定着を促進したのです。それまでは清里地域は人の住まない山地だったのです。
現在、清里周辺で高原野菜を栽培したり牧畜をしている人々はでそのポール・ラッシュと清泉寮を大切にしています。
近年はジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームが爆発的な人気を博し若者が多数清里を訪れるようになりました。
現在、清泉寮は設備の良いホテルとして一般の人々も宿泊出来ます。新館と旧館がありますが新館のほうが施設が良く、その奥にはポール・ラッシュの記念館もあります。
普通のホテルと違うところは館内に聖公会の礼拝堂黙想室があることです。礼拝堂で少しお祈りをして来ました。
それでは写真で清泉寮の近辺の風景を示します。

上と下の写真は八ヶ岳の風景です。雲が多くて暗かったのですが残雪を頂いた峰々がまじかに見えていました。



上は八ヶ岳高原の開拓地の風景です。戦後に開拓された畑で、おもに高原野菜を東京へ出荷しています。寒冷地なので風景が北海道に似ています。

上は清泉寮の新館の入り口です。宿泊の受け付けは全て新館のみで行っています。

上は乳牛牧場で、この脇の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを朝9時から販売しています。
この八ヶ岳高原の清里地域は戦前は人のいない荒地だったのです。それが一人のアメリカ人によって開拓が進み、現在は観光地として有名になっているのです。日本のいろいろな地方の歴史のなかでも興味深い地方史になっています。そんなことを考えさせる旅でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料==========
清泉寮を作った人:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE
清泉寮は、現在ではロッジ、コテージ、レストラン、キャンプ場などを有する宿泊・研修施設であるが、建設当初の1938年(昭和13年)は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導したKEEP(Kiyosato Educational Experiment Project:清里教育実験計画)の一環としての日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。当時まだ貧しかった山梨県のこの地に大きな可能性をもたらし、キリスト教信者のみならず多くの人をひきつけた。清泉寮という名称は、1937年(昭和12年)秋に現地を視察した立教大学の高松孝治教授司祭により名付けられた。
以下は省略します。でも続きは是非、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE を開いてご覧下さい。面白いですよ。

立教大学作った人:http://www.rikkyo.ac.jp/aboutus/philosophy/spirit/history/
創設者ウィリアムズ主教は1829年7月18日、アメリカ合衆国ヴァージニア州リッチモンド市で生まれる。ヴァージニア聖公会神学校を卒業後中国派遣宣教師に任命され、1856年6月 に上海に到着。1859年日本に派遣され、同年6月に長崎に到着。幕府のキリスト教弾圧の中、伝道に務める。1866年に一旦帰国した後、中国および日本伝主教となり中国と日本の新拠点として武昌と大阪を開拓。1874年2月に築地に立教の前身となる私塾を開く。1889年、後進に道をゆずるべく主教職を辞任。1895年京都に移り関西地方の伝道に生涯最後の力を注ぐ。1910年12月2日、故郷リッチモンド市で生涯を終える。 享年81。

旅の趣味(3)曾遊の地、松原湖をめぐり観光地の栄枯盛衰を想う

2015年05月12日 | 旅行記
あれはもう30年以上も昔になりましたが、まだ若かった妻と一緒に散歩した松原湖に行きました。北八ヶ岳の長野県側の小海町にある高原の自然湖です。
たしか湖岸まで車が入れたと思い入り口を見つけました。下りて行くと30年以上前と同じ風景が眼前に広がり、昔と寸分も違わない歩道が湖を一周しています。下にその風景をしめします。

旧懐の情が胸に溢れます。昔どうりの駐車場に車を停め、人のいない湖岸の遊歩道を歩きます。
あくまでも静寂な高原の湖は淋しささえ感じられます。とにかく人影が無いのです。
あまり整備されていない自然のままの道を歩いていくと2軒、3軒と喫茶店や蕎麦屋や民宿があります。しかしよく見ると全てが廃業しています。入り口や壁の材木が朽ちかけています。
30年前はあんなに賑わっていたのに誰もいないのです。
しかし良く観察すると休日には家族連れが来てボート遊びをするようです。下の写真のように湖に浮かんだボートと管理小屋だけは手入れされています。

昔は雪の無い季節にはヘラ鮒釣りや冬はワカサギ釣りで人が沢山来ました。観光客も多く湖岸の土産物屋や民宿も賑やかだったのです。
土産物店が作ったシャクナゲ園には人が来なくても下の写真のように美しい花が咲いています。

周囲の新緑はあくまでも美しく心地良い弱い風が吹き抜けています。湖に流れ込む清流には岩魚の影が見えています。観光客があまり来ないと岩魚も人を恐れません。そんな新緑の写真を2枚示します。



このような新緑の美しい湖岸を巡りながら観光地の栄枯盛衰を想いました。
自然はあくまでも美しいが人があまり来なくなった観光地は全国に沢山あるに違いありません。人が来なくなると自然保護のためにその方が良いのです。しかしそこに住んでい居る人々の収入が減ります。過疎化が起きます。
近年、観光客は国内の地味な場所よりも海外に遊びに行くのです。経済事情が良いので気軽で家族一緒に海外の面白い所に行きます。
そして昔は観光旅行に行くと必ずのようにお土産を沢山買う習慣でした。観光地では食べ物屋に入って散財する習慣があったのです。観光旅行など滅多に出来なかった時代は人々は松原湖のような所にも沢山訪れて散財したのです。
それはある時代の日本の文化だったのです。その文化が消えてしまえば、あちこちの観光地が寂びれるのは、それも歴史の断面です。
栄枯盛衰は世の習いと言いますが、松原湖にも盛衰があるのです。それにしてももっと多くの人々が訪れて松原湖の自然の素晴らしさを楽しんで頂きたいと祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
==参考資料==========
松原湖の生成:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E6%B9%96
888年の八ヶ岳連峰・天狗岳爆発により、丘陵地の窪地を流れる大月川が泥流によりせき止められて氾濫し、生成された自然湖である。形成要因として火山性地震による大月川のせき止め説もある。猪名湖・長湖・大月湖に周辺の臼児池(うすごいけ)・鶉取池(うずらとりいけ)・桷木池(ずみのきいけ)・オシデノウミを加えた7湖沼を松原湖沼群という。湖沼群の中でも特に大きいのが猪名湖で、その名は湖の形がイノシシに似ていることに由来する。

ついでに島崎藤村の初恋と椰子の実をお送りいたします

2015年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ついでに島崎藤村の初恋と椰子の実をお送りいたします。

======================
初恋     島崎藤村

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
==========================
椰子の實      島 崎 藤 村
http://www.geocities.jp/sybrma/289shi.yashinomi.html より。

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ

故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる

われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ

實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)

海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ
======================
なお椰子の実はカール・ボエルマンの作を「思郷」の影響を受けたという面白い話を、http://www.geocities.jp/sybrma/289shi.yashinomi.html から下に転載します。
・・・・前略・・・・カール・ボエルマンの作の「思郷」と題して意訳した漢詩の訓読文を、関良一氏の『近代文学注釈大系 近代詩』(有精堂・昭和38年9月10日発行、昭和39年12月20日再版発行)から転写しておきます。 
   離郷遠寓椰樹国  郷を離れて遠く椰樹(やじゅ)の国に寓(やど)る。
   独有潮声似窮北   独り潮声の窮北に似たる有り。
   思郷念或熾      思郷の念或ひは熾(おこ)り、
   即走海之浜      即ち海の浜に走る。
   聴此熟耳響      此の耳に熟(な)れし響を聴き、
   欝懐得少伸      欝懐少しく伸ぶることを得たり。  
  ただし、吉田氏の文中には「離レ郷遠寓椰樹国」とありますので、吉田氏は「郷を離れて遠く寓る椰樹の国」と読まれたものと思われます。・・・・
以下省略。

箱根山は水蒸気爆発するか?

2015年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
最近の新聞によると常時、水蒸気を噴出している箱根の大涌谷の噴出が盛んになり、有感地震も起きています。大涌谷で 噴気活動が活発化し危険性が予測されているので大涌谷周辺の遊歩道が立ち入り禁止になりました。
以下は5月75日の読売新聞ネット版です。
「箱根山で火山性地震が頻発、震度1を3回観測」
2015年05月05日 23時46分
気象庁は5日、火山活動が活発化している箱根山(神奈川・静岡県境)を震源とする震度1の地震が同日に3度観測されたと発表した。
 箱根山で体に揺れを感じる「有感地震」が起きたのは、2011年3月以来。火山性地震も急増している。
 同庁によると、火山性地震は5日だけで114回観測(午後11時現在)され、1日の回数としては4月以降で最多だった。このうち、午前6時22分頃と同56分頃、午後9時13分頃に、神奈川県箱根町で震度1を観測。地震の規模を示すマグニチュードは2・2~2・6と推定される。
 気象庁火山課は5日午後、箱根山大涌谷周辺の現地調査を行い、前日に続き高温の水蒸気が勢いよく噴出している様子を確認した。ただ、地殻変動などを測定するための傾斜計に大きな変化はなく、同庁は「直ちに水蒸気爆発などが起きるような兆候は確認されていない」としている。以下にこのネット版に掲載されていた写真を転載します。

上の写真は 噴気活動が活発化し、周辺の遊歩道などが立ち入り禁止となった大涌谷(5日午後、神奈川県箱根町で、読売ヘリから)=中原正純撮影
さてそこで大涌谷以外の箱根全体の観光地は安全なのでしょうか?
箱根へは車を運転して何十回 と遊びに行っているのでその地形は知っているつもりです。
その地形を簡単に説明します。標高の一番高い湖として芦ノ湖があり早川が流れ出ています。
その芦ノ湖を囲むように山が連なっていて、更にその外側に外輪山の尾根が囲んでいます。
今回立ち入り禁止になった大涌谷は芦ノ湖を囲む山系の北側の斜面の谷にあります。従って万一ここが水蒸気爆発をしても芦ノ湖の湖岸にある箱根町や元箱根は安全な所と考えられます。
大湧谷に比較的近い観光地は強羅です。そして芦ノ湖の観光船が発着する湖尻です。
しかし大湧谷と強羅や湖尻はかなり離れているから危険性はそれほど無いとも想定されます。
むしろ大湧谷の下にある仙丈ケ原が危険と想像で出来ます。
国道の東海道は箱根町を通っていて仙丈ケ原を通過していないので大丈夫だと想定されます。
大湧谷に限定した水蒸気爆発なら他の観光地は安全な筈です。
そこでこれからの5月末に掛けて美しい芦ノ湖の写真と元箱根の「山のホテル」のツツジの花の写真をお送り致します。箱根はこれからますます良い季節になります。
しかし火山だけは絶対に予測がつきませんから気象庁の発表に充分注意して観光の旅を楽しまれるようにお祈りしています。これらの写真は2010年の5月下旬に撮った写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)















山梨県、北杜市にある清春白樺美術館所蔵のジョルジュ・ルオーの絵画と記念礼拝堂をご紹介します

2015年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市にある清春白樺美術館は多数のルオーの絵画を展示しています。美術館の隣にはルオー記念礼拝堂があるのです。
白樺派の人々がルオーを尊敬し、日本へ紹介したのです。
ルオーは数多くのキリストの絵、そして聖書にまつわる話を絵に描きました。
画家ジョルジュ・ルオーの心の中のキリストはどんなイエス様だったのでしょうか?そのことを考えながら清春白樺美術館のルオーの絵とルオー礼拝堂のを見て回るのも良いものです。
下に写真をお送りいたします。

上が谷口吉郎設計の清春白樺美術館です。この美術館に下のようなルオーの絵画も多数展示されています。







さて下の写真はルオー記念礼拝堂で、ここにもルオーの絵画が展示されています。





下の写真の上の方に示したように、ルオーの次女が作ったステンド・グラスの窓もついています。

それにしてもこれだけ多数のルオーの絵画を展示している美術館は珍しいのではないでしょうか。そして美術館の隣にはルオー記念礼拝堂もあるのです。
白樺派の日本の芸術家たちが何故ルオーの絵画が好きだったのでしょうか?それともこの美術館を建てた吉井画廊の主人がルオーが好きだったのでしょうか。不思議な気が致します。

それはそれとして、皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

世界的な組織の「イエズス会」の日本における活動

2015年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
日本へキリスト教を初めて伝えたのはイエズス会の創立者の一人のザビエルでした。それは1549年のことでした。ザビエルの肖像画は学校の教科書にもよく掲載されてのでご記憶の方も多いと思います。ザビエルだけでなく数多くのイエズス会の宣教師がやってきて日本人へカトリックを伝承したのです。しかしキリシタンの禁教とともに宣教師たちは消えてしまいます。しかし明治維新後に再びイエズス会の宣教師たちも日本にやってきて上智大学をはじめいろいろな学校を作ったのです。
私はある時イエズス会の組織の興味を覚え、その男子修道院を2010年に訪問したことがあります。以下はその折りの訪問記です。

一番目の写真はイエズス会石神井修道院の若い修練者が毎週カトリック小金井教会にミサの手伝いに来て聖なるパンを信者に与えている場面です。そこで彼が所属していた修道院を訪問することにしたのです。2010年の7月のことでした。
お会いして下さった方はイエズス会の塩谷恵策神父様でした。博識な方です。修道院の歴史を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。
昔から東洋文庫から出版されていた本を数冊読んで、中国や日本でのイエズス会の会員の活躍は知っていました。しかしイエズス会士にお会いするのは初めてでした。興奮しました。
イエズス会士に会えるだけで嬉しかったのですが、お話の内容も感動的でした。
その話によるとイエズス会は1534年にイグナチオ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルなど7人のパリ大学の同窓生がモンマルトルの丘の上で、終生自分たちを神へ捧げる修道会を結成したのです。
私が考えるには、それは当時、マルチン・ルッターなどが始めた宗教改革の動きに刺激されカトリック宗派の刷新運動の一つとも考えられます。
その後、イエズス会はローマ教皇にも認められ、大きな修道会へと発展していったのです。
現在、イエズス会は世界中の112ケ国で2万人の会員が活動している世界的な組織です。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものです。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっているそうです。
カトリックにはローマ教皇が認可した男子修道や女子修道会が他にも数多くあり、日本人が創設し、ローマ教皇に認可されたものも多数あります。
しかし日本人も含む2万人の会員を擁するイエズス会は現在カトリックでは最大の修道会です。
このイエズス会は全世界への宣教も活発で、1540年ころからインドへの宣教をはじめ、清国、李朝朝鮮、そして日本へも数多くのイエズス会員が送ったのです。その中の一人のザビエルが日本に来てカトリックを伝えたのです。
その他、清朝ではマッテオ・リッチ師のように清朝の高位高官になり中国に溶け込んだ人もいたのです。
日本では明治維新後、再び活動を再開し、上智大学や栄光学院などの高校を数々創設し、運営にあたっています。栄光学院の名前は、イグナチオの座右の銘「神のより大いなる栄光のために」にもとずいているのです。
広い意味ではイエズス会はヨーロッパ文化をアジアへ伝える役割を果たしたのです。
イエズス会の歴史、その使命などは検索するといろいろ出ています。
末尾に参考資料として、その一部を添付しました。
下に私が石神井修道院を訪問した時に撮った4枚の写真をお送りいたします。
上から順に、石神井修道院の正面玄関、船越保武氏作の和風姿のマリア様、石神井修道院の主聖堂、塩谷恵策神父様のお写真の4枚です。
なお船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家です。
その26聖人像に対して、1962年に高村光太郎賞が与えられています。船越さんは敬虔なカトリック信者で東京芸大の教授も務めました。尚、その息子さん桂氏も彫刻家として現在活躍中です。
それはそれとして、今日も皆様ごの健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







===参考資料:イエズス会の創設==============
1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。この日がイエズス会の創立日とされている。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。
以下は「モンマルトルの誓い」をたてた7人です。
イグナチオ・ロヨラ(1491年-1556年)、初代総長
ピエール・ファーブル(1506年ー1546年)
フランシスコ・ザビエル(1506年ー1552年清国で客死)、1949年日本へキリスト教を伝える。
ディエゴ・ライネス(1502年ー1565年)、第二代総長
アルファンソ・サルメロン(1515年ー1585年)
ニコラス・ボバディリア(1507年ー1562年)
シモン・ロドリゲス(1510年ー1579年)
1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。
1538年の10月イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』 で取り払われた。イグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣した。
会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。
イグナチオが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(イグナチオは「死人のごとき従順」 という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」 である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表している。
以下は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A に御座います。

端午の節句の鯉のぼりの今昔

2015年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和の初めころの鯉のぼりは真鯉と緋鯉と吹き流しの三つが普通だったような記憶があります。昭和11年生まれの私の家の庭には太い丸太の棒を立て、真鯉と緋鯉と吹き流しが五月の風に青空を泳いでいました。それは戦前のつかの間の平和な時代でした。それが昭和19年、20年となり鯉のぼりは無くなりなりました。そして、その後の戦後の困窮した生活では鯉のぼりは一切見たことがありませんでした。
それが昭和30年ごろになり生活が少し安定してくると次第に昔の鯉のぼりを押入れから出して飾る家が増えてきました。お金持ちそうな家の鯉のぼりを見て、ああ日本は復興したきたと嬉しく思ったものです。

そして経済の高度成長期には多くの家庭が鯉のぼりを上げるようになったのです。経済に余裕があるので真鯉と緋鯉の他に2、3匹の子供の鯉も泳いでいます。
その頃までは鯉のぼりは男の子のいる家で上げるという風習があったようです。

一番目の写真はそのような時代の鯉のぼりです。出典はhttp://nobrin7.exblog.jp/11057098/ です。
それが何時の時代からか、鯉のぼりを多数、広い場所で一気に上げるようになったのです。二番目の写真がその光景を示しています。
写真の出典は、http://www.okinawa-watabewedding.co.jp/…/2…/05/post-185.html です。

ですから最近はこのような大きな鯉のぼりの群れをテレビで見て、自分の家では鯉のぼりを上げない人が増えてきました。私の近所には男の小学生が沢山いますが、もう鯉のぼりを上げる家は無くなりました。

しかし地方に行くと昔風に家々がそれぞれ鯉のぼりを上げています。そこで端午の節句の昨日、近所にもそのような家が少しはあると思い写真を撮りに行きました。
車で回りましたが無いのです。そう言えば東京では鯉のぼりを見ることがメッキリ少なくなりました。
何か淋しい思いがします。

そこで花の写真でも撮ろうと三鷹市の花と緑の広場に行ってヒナゲシの写真を撮って来ました。三番目から五番目の写真がそれです。写真を撮りながら端午の節句に鯉のぼりを上げる風習は地方、地方で時代とともに少しずつ変わって行くものだと考えていました。それにしても端午の節句の柏餅と鯉のぼりはいつまでも続くようにとお祈りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)












同人誌、「岩漿」を手にして趣味と人生を想う

2015年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、4月になると伊東市にある文学会の同人誌、「岩漿」が送られてきます。今年は遅れて5月になってから、「岩漿」23号受け取りました。この文学会の主催者の木内光夫さんからの丁寧な手紙が添えてあり、遅れた理由が書いてあります。
カトリック教徒の私には失礼になるような人間の「危険」な部分を取りあつかった小説が掲載してあるのでお送りしようか、止めようかと悩みました。しかし宗教と文学を混同する筈はないと思いなおし、お送りすることにしましたという意味の手紙です。その小説は本人の書いた「傾いた鼎・完全版」馬場駿、です。馬場駿とは木内光夫さんのことです。
なるほど「傾いた鼎・完全版」は人間の性欲を見つめた力作で、部分的には赤裸々な描写があります。しかし長年の深い思索にもとずいた作品なので優れた文学になっていると感じました。人々が避けがちなテーマを真面目に取り上げ一個の作品にしています。考えさせる小説です。
この「岩漿」23号の内容は末尾につけた馬場駿、本名、木内光夫のホームページにあります。この同人誌を手にして私は趣味とは何か考え出しました。
木内光夫さんにとって小説を書くのは趣味なのでしょうか?文学会を作りその同人を集め、同人誌の「岩漿」を毎年一巻づつ発行することは趣味なのでしょうか?
文学活動で生計を立てているのなら、それを職業と言うのが普通です。そうでない場合は趣味と言えるかも知れません。
しかし私は木内光夫さんにとって小説を書くことは趣味ではないと昔から考えています。小説を書く、同人会を作る、会誌の「岩漿」を20年以上発行する。これは木内光夫さんの人生そのものです。生計を立てるためにある資格を取りあるホテルで何十年も働きました。それも間違いなく木内さんの人生の一部です。しかしもっと重要な人生は小説を書くことです。それを後世に残すためにも美しく装丁された「岩漿」を毎年発行しています。そして小説の単行本の「夢の海」、「孤往記」、「小説太田道灌」を発売しているのです。
ですから私は小説を書くことは趣味ではなく人生そのものだと信じています。
木内光夫さんとはそんなひたむきな男なのです。彼と会ってお酒を一緒に飲んだ30年以上前のことを忘れません。真面目でひたむきに人生に挑んでいたその純な姿を忘れません。
会った場所は甲斐駒岳の麓の山林の中にある彼の兄の山荘でした。そこには現在、実兄の木内正夫さんが住んでいます。私は毎月のようにこの山林を訪れます。そして木内正夫さんの家にもちょっとだけ寄ります。
小説を書く、同人誌「岩漿」を発行する。これは趣味ではありません。木内光夫の人生そのものなのです。そんなことを想いながら今日の挿絵写真として先月に訪れた木内正夫さんの山荘の近辺の風景写真を示します。光夫さんが懐かしく思ってくれれば嬉しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===作家、馬場駿、本名、木内光夫のホームページ===
http://aseigansho.web.fc2.com/
木内光夫のホームページ:「馬場駿と岩漿文学会」
                                          
馬場駿/木内光夫の創作        
高島京の喫茶店
小説「夢の海」              
小説「孤往記」 
「小説太田道灌」
 
「馬場駿」は、当ホームページの主宰者で、「岩漿」の編集をしています。
このホ「ームページでは、馬場駿の著作3冊もご紹介しています。興味がおありの方は上掲の
「太田道灌」、「夢の海」、「孤往記」をそれぞれクリックしてご入場ください。
   
馬場駿または会員の出版物を入手なさりたい方は、下記の岩漿文学会編集部のメールアドレス
でお便りください。売り切れ、絶版がありましたらご容赦願います。
中には「寄贈」させていただくことも可能という本もございます。
 
当会に入会をご希望の方は、上記編集部のメールアドレスでご連絡ください。
入会後は他の会員が掌る当会の事務局が「連絡機関」となります。
また当会にご質問などがありましたら、同様の連絡方法でお願いします。

岩漿23号  
  岩漿23号発行  2015年4月5日  180頁A5判  会員配布4月10日着  合評会・総会予定5月23日土曜 伊東市内で予定、伊東市 サガミヤ書店 でも販売中!

送付先図書館  静岡県立図書館 熱海市立図書館 伊東市立伊東図書館 伊東市立八幡野コミセン 東伊豆町立図書館 下田図書館 伊豆の国市立図書館 国立国会図書館
ご希望の方は ここをクリックしてどうぞ

 ◆小説                      ◆詩
  「災難だって?」 椎葉乙虫        「たしかなものを」 えびね蘭坊
 「傾いた鼎・完全版」 馬場駿   「うしろめたい気持ちは持たないで」小山修一
 「山鳩」 桂川ほたる             「還暦」 小山修一
 「いさり」 佐木次郎             「蛇」 小山修一
 ◆論文                     ◆短歌 
      「穂積忠と労作教育」 桜井祥行   「母…五人の子どもの。」 Chaco
      「折口信夫と伊豆」 桜井祥行
 ◆小説
  「ルーツ・小さな遺品」 深水一翠
 ◆随筆
   「青天の霹靂」 瀬戸あゆみ
    「母の牡丹」 桂川ほたる
    「枯れ木に花」 日吉睦子
 ◆本の紹介 
   「リスボンへの夜行列車」 財津公江