上に示したのはミレーの「落ち穂拾い」という絵で、誰でも知っています。「晩鐘」と「種まく人」の3枚は特に有名で、「種まく人」は山梨県立美術館にあるので原画も見ることが出来ます。
この「落ち穂拾い」の内容について私は73歳になるまですっかり間違った理解をしていました。
勤勉で節約を美徳とする農民が畑に落ちた麦の一粒まで大切に拾い集めている図と思い込んで居たのです。
ところが、そうではないのです。小作人は落ち穂を拾い食べることを地主から許さられていたのです。全収穫量の1割以下の落ち穂なら小作人が食べても良いことになっていたようです。こんな哀れ小作人へ同情して隣の自作農もわざと落ち穂をそのままにして小作人へ与えていた場合もありました。
2009年10月21日の読売新聞の10ページ目の「時代の証言」に、上智大学の学長をしたヨゼフ・ピタウさんの幼少の頃のことが書いてあります。
ピタウさんはイタリヤの農家に生まれました。父は信仰が厚く、周囲の貧しい人々のために自分の畑の落ち穂をそのままにして置いたそうです。さらに実った小麦の一部を刈り取らずに貧しい人々へ与えていました。母もお菓子を作ると必ず病人やお年寄りへ届けたのです。届ける役はピタウ少年とその一人の姉と5人の弟の役目でした。
ピタウ少年はそのような家庭に育ち、7歳の時から村の教会の神父さんのお手伝いを始めます。そして9歳のとき神父になる決心をしたのです。
1928年生まれの彼が宣教のために日本の土を踏んだのは1952年、24歳の時でした。
彼はイタリヤの農村の地主と哀れな小作人の関係を見て暮していました。日本へ来ても封建制を歴史に持つ日本人の考えがよく分かります。彼の宣教活動を支えて居たのは貧者に優しい父の思い出、母の無限の優しさ、そして村の神父さんの愛情だったのかも知れません。ピタウさんの上記の記事の中には、幼少の頃を楽しさが行間に溢れています。決してカトリックは良い宗派ですよなどという宣伝が一言半句も出て来ません。
ピタウ少年の父のように優しい人が、貧しい小作人の為に落ち穂をそのままにして置く。それを拾い集める小作人の様子を描いた絵が「落ち穂拾い」なのかも知れません。地主が貧しい小作人へ拾わせるために稲穂の落ちこぼれをそのままにして置く。そんな風習は日本にもあったかも知れません。
ミレーの「晩鐘」は貧しい農民の信仰の厚さを描いた美しい情景画です。ピタウ少年の育ったイタリアの農村もそのような場所だったのでしょう。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人
明治維新から1941年12月の真珠湾攻撃までは、日本の内地の生活には平和があり、都会では欧米風の市民生活もすこしずつ普及して来ました。農村には地主と小作人が居て、江戸時代とあまり変わらないところもありましたが、小学校が普及し、裕福な人は都会へ出て出世していったのです。
しかしこのような秩序ある社会は真珠湾攻撃によってすっかり壊れてしまったのです。
真珠湾攻撃の大成功に全国民が狂喜し、やがてその大狂喜は狂気の戦争へと自然に続き、日本が有史以来の破滅の運命に遭うのです。
私は1936年に仙台市に生まれたので戦前の市民生活を少しだけ覚えています。
そこでかすれ行く記憶にたよりながら真珠湾攻撃までの市民生活と農村の人々について、その断片的なスケッチを連載で描いて行きたいと思います。
今日は味噌、醤油、酒、油、そして多くの食料品は量り売りが普通だったことをご紹介します。
小売店には一升枡や一合升があり、醤油や油や酒を、持参して行った空瓶に升ではかって売っていました。私の家には2人の女中が居て、空瓶を持って買いに行っていました。勿論、宴会などで多量に必要な時は店の小僧が瓶ずめのまま配達してくれました。
野菜や魚は毎日、御用聞きが家に来て注文をとり、夕方配達してくれました。
店への支払いは毎月の月末に集金人へ払います。
重さで売る商品を置いてある店には必ず「竿はかり」があり分銅を一方に吊って重さをはかっていました。重さは1貫目、100モン目などという単位を使っていました。
カツオ節やスルメは一本や一枚でも売ってくれます。勿論お菓子も一個ずつ売ってくれます。
このような売り方と支払いの方法は戦後も残り、東京オリンピックの1964年頃までの日本の商売の習慣だったのです。
このような売り方は買い手にとって便利です。しかし商人はそれで儲かっていたのでしょうか?今、考えると不思議な気がいたします。
下にそんな戦前の商店の風景写真を送りいたします。小金井公園内の「江戸・東京建物園」で一昨日撮った写真です。
小金井市には広大な都立公園が2つあります。北側に都立小金井公園、そして南側に都立武蔵野公園です。この南側の公園は野川が流れているので、何時もは野川沿いの遊歩道を散歩してきます。ところが昨日は野川から離れて南の林の中を家内と散策して来ました。色々な樹木が植えてあり鬱蒼とした林になっています。
樹木が多いのは、この公園の南半分が他の都立公園へ樹木を供給する木々の畑になっているためなのです。その畑の中の道は、森の中の道のようです。
そんな道に迷いこむと、何か山奥の林の中を夫婦で歩いているような錯覚に捕らわれました。その瞬間、今まで味わった事の無い幸福感が身を包みます。そして周りの樹木が一瞬輝き出しました。50年も一緒に住んできた男女が二人で老後に林の中を歩く。何か奇跡のようです。キラキラ輝く時が林間を風のように流れて行きます。そうです。老年になると生きているだけで幸福感に包まれるのです。何もしないで公園の樹木の間を夫婦で歩くだけで満足なのです。このような幸多い境地を、若い時は想像も出来ませんでした。
何時かは一方が先に旅立ちます。それだからこそ林の中の道の散策が一層貴重に思えるのです。
老齢の皆様にはそのような経験がありますでしょうか?お二人そろって林の中の道を散歩する幸福をお祈り申し上げます。 (終わり)
写真 トウカエデ ドッグウッド ケヤキの林 ネズミモチ ドッグウッドの実
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人
秋になると蚊が居なくなる。気持ちよく庭の仕事が出来るようになる。ムクゲを短く剪定し、アジサイも刈り込んでしまう。雑草も枯れてくる。小さな畑のキューリとナスも終わった。長い間新鮮な実を与えてくれた小さな畑。裏のキンモクセイの花も散ってしまった。良い匂いもアッという間に終わってしまった。庭が急に明るくなる。こうして季節が目まぐるしく変わって行く。
そうして家内も私も確実に年老いて行く。
今年の夏は暑かった。冷房装置を夜通しつけた日が多かった。
今年は時の流れが一段と速いような気がする。いろいろな事があったがみな過去という世界へ流れ込んでしまった。
先日散策した湿地公園ではススキの穂が、ガマの穂が秋深いことを告げている。(下に写真を掲載しました)。
散歩の時は何も考えないことにしている。
自然をジッと見て季節の流れの不思議さを想う。無我の境地とはそのようなものと思う。
他人と議論をしたり、難しい理屈を書いたりすることが何か無駄なことのように想う。
そんな悠々とした気持ちで秋の日々を過ごす幸せを噛みしめて居る。
現役を引退した皆様もきっと同じように悠然と老後を過ごしていると信じています。
写真の出典:http://www9.ocn.ne.jp/~galaxyz/Rothenburg2.htm
ヨーロッパのローカル文化を楽しむための簡単な方法がある。その地方だけの言葉を用いることだ。それと古い地名を使うのも重要だ。
例えばドイツでは、こんにちは!、はグーテンタークであると日本の学校では教えている。間違いではないが、南ドイツでは言わない。グリュースゴットと挨拶する。神のお加護を!という意味だが、それ程立派な信仰生活をしているわけではない。それから地名は昔風に、フランクフルト・アム・マインとかローテンブルグ・オプ・デア・タウバーという具合に呼ぶ。マイン河のほとりのフランクフルトとかタウバー河のほとりのローテンブルグという意味である。ドイツの町が、河による運送が重要だった時代からの古い呼び方である。こういう言葉を使うと南ドイツ人は途端に相好を崩し、いろいろ面白いローカル文化を教えてくれる。1969年8月から10月までドイツ語の集中研修のためにローテンブルグのある古風な家に下宿した。朝食は自炊、昼食は語学学校で給付する食券で町のレストランで食べる。夕食は自費で昔風のレストランで地元のワインを飲みながらユッタリと時間を過ごす。いささか酔うので地元の常連客と仲良くなる。下宿の部屋には簡単なキッチンとシャワーが付いている。毎日シャワーでは味気ない。ゆったりお風呂につかりたい。レストランでの夕食のあと地元の人に聞くと銭湯があると教えてくれた。早速、次の日の夕方行ってみる。入り口を入ると切符売り場のような窓がある。お金を払うと石鹸、小さなタオルとバスタオルを渡してくれて、「奥の廊下の左右、空いている部屋のお風呂へ入りなさい」と教えてくれる。廊下を歩いて行くと3畳間くらの小部屋が左右に10個くらいずつ並んでいる。空いている部屋に入り、鍵をかける。見ると猫足の格好をした古風な脚が4本ついた大きなバスタブが置いてある。蛇口から湯がほとばしる。ゆったり浸かり、温泉気分になった。それ以来、毎週2回くらいずつ銭湯の世話になる。あとからよく聞くと、ドイツの田舎町には、旅をする人々のためのホテルがある。しかしシャワーが付いてないのが普通だったそうだ。そこでこの様な銭湯が必要になる。現在のホテルでも、城壁の内部では建物の改造が禁止されているので寝るだけの部屋が多いそうだ。このような安いホテルに泊まるのは若い人々が多く、そのような人が銭湯を使用するという。それ以来、ドイツの古い町に行ったときは何となく銭湯を探す癖がついてしまった。ホテルの壁に大きな字で、「Fliessender Wasser」(美味しい泉の水が豊富に流れてるよ!ーというような意味)と書いてある古い町では銭湯がある。銭湯は長く浸かっていても誰にも邪魔されない。旅の疲れをとるのに具合が良い。ドイツではバーデン・バーデンのように温泉もある。但し日本の温泉とは雰囲気が全然違う。清潔な湯船に決まった時間だけ繰り返し浸かる「温泉療法の湯」が多い。こちらは落ち着かなくていけない。お勧め出来ない。話は飛ぶが、中国の東北地方の湯崗子という温泉に入ったが、その内容はローテンブルグの銭湯と同じ構造であった。ただし蛇口をひねると硫黄臭のある温泉の湯がほとばしった。これはどうもヨーロッパ人が持ち込んだ構造らしい。
日本の東北地方では、木の湯船に混浴で入るので、大らかな寛いだ気分にはなれる。温泉だけは日本が世界一と信じています。(終り)
1、中国の一党独裁は長期間続く!・・国民の本音はそれを支持しているからです:
2、鄧小平の1992年の南巡講話が中国のGDPを世界2位にした!:
3、歴史から抹殺される胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記・・・そして中曽根総理大臣の靖国神社参拝中止:
4、22年前の天安門事件を振り返る(2)広場の惨殺死体とその最中のゴルバチョフ大統領の訪中:
5、22年前の天安門事件を振り返る(1)胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記
上に掲げた5編の記事は最近このブログに掲載した中国の経済成長に関する政治的背景を説明したものです。中国の経済が急成長した理由は鄧小平の市場原理にもとずく資本主義的政策のお陰です。それを効率よく推し進めるたのは共産党の一党独裁体制です。したがって共産党独裁に反対する胡総書記と後任の趙総書記は抹殺される運命に遭ったのです。そのような趣旨の説明でした。
これら5編の記事は中国人の立場に立って考えるとこのように理解されますという内容でした。如何にも中国へ友好的な内容です。中国をひいきにしていると誤解されても仕方のない書き方でした。しかし客観的に観察するとこのような解釈が正しいと思います。別に中国をひいきにして日本をおとしめている訳では毛頭ありません。これら5編の記事へ対して、2、3人の方から中国のチベット占領やウイグル族の圧迫は許せないというご意見を頂きました。また中国の急激な軍備拡張は日本の恐怖だというコメントも頂きました。このような批判は当然ではありますが、感情的であり決して建設的な結果へつながらないと信じています。
そこで今回は中国の軍備拡張に関して大人の為のクイズの問題を出してみたいと思います。ご自分でお考え頂ければ嬉しく思います。
(1)「中国人民解放軍」を検索してその軍備を日本の自衛隊と比較して見ましょう。第一のクイズの問題は、「中国軍は日本へ上陸、占領する作戦能力を本当に持っていると考えますか?」です。
(2)中国の軍備は非常に古いものと言われています。日本の自衛隊の戦闘機、イージス艦、各種のミサイル、潜水艦などで中国の日本上陸を阻止出来ると考えられますか?
(3)中国は原子力潜水艦や核兵器を所有していますが、それらが日本攻撃に使用されると考えられますか?
(4)中国の航空母艦の完成によって中国は太平洋の制海権を握れるでしょうか?
(5)中国が日本を武力攻撃しないようにする外交政策とはどのようなものでしょうか?
上のクイズの問題には正解はありません。皆さまの思考の仕方次第でいろいろな答えが出て来ます。その思考を繰り返して行くと、中国の軍備拡張は怖がる必要が無いという結論に近づくと思います。中国のチベット占領やウイグル族地域の圧政については続編で私の考えを述べたいと思います。
上記の中国の急激な軍備拡張に関して皆さまのご意見を頂ければ嬉しく思います。(続く)
下に中国軍の自走式榴弾砲と最新型の戦闘機と目下完成近い航空母艦の写真を掲載いたします。
9月の下旬に福島原発1号炉、2号炉、3号炉の炉心緊急冷却装置が復旧し、核燃料棒へ直接冷却水を注水出来るようになりました。その結果、炉心圧力容器の外側が100度以下になり冷温停止状態に入ることに成功しました。喜ばしい前進です。
東京電力はこのように自分達に都合の良いことは即刻、情報公開します。
しかし以下のような重大な情報を決して公開しません。
毎日、何トンの浄化後の水を原子炉格納容器へ注水しているか?
原子炉格納容器から漏れ出した汚染水を何処から、毎日、何トン汲み上げて、浄化装置で処理しているか? この前者と後者の差が地下室の床や壁から地中や海中へ漏れ出している高放射能の汚染水の量を示しているのです。
何故、東京電力が発表しないのでしょうか?
理由は明白です。高濃度汚染水の毎日の漏水量は、原発工場地下へ、そして最終的には海への汚染水の流出を定量的に示す重大な情報だから公開しないのです。
この問題の詳細を説明する前に、福島原発の現状を時々刻々、報道しているいウェブ・サイトをご紹介します。それは、「福島原発の現状」:http://www.47news.jp/47topics/e/201888.php です。
これをいくら注意深く見ても断片的なニュースだけです。毎日の注水量と汚染の浄化処理量は決して発表されていません。その差を計算すると恐ろしいことが分かってしまうからです。
それではもう少し分かり易く説明します。
下の図は本来存在していてはいけないタービン発電建屋の床から汚染水を汲み上げ、浄化し、また炉心冷却へ再利用するシステムを示しています。
つくば市に住んでいる研究者の理路整然としたブログ:Author:TSOKDBA:http://tsukuba2011.blog60.fc2.com/blog-entry-241.html から転載させて頂きました。
さらに下の図は原子炉のあちこちの割れ目から汚染水が漏れている様子をしめすイメージ図です。4月28日掲載記事、「現在、福島原発で何が起きているか?ー多量の放射能汚染水が地下や海へ」 から転載したものです。
簡単に言ってしまえば、原子炉の底が抜けただけでなく原発工場の配管に穴が開き、工場全体の壁や床に割れ目が出来ていると想像できます。なにせぶ厚い建屋が「水素爆発」で吹き飛んだのです。要するに原発工場全体の底が抜けた状態になっているのです。
東京電力は何処から、どのくらい汚染水が漏れ出しているかを分かっていません。ですからこれを発表しない理由にしているようです。しかし毎日の注水量と汚染水の浄化処理量は明確な数字として記録に残っている筈です。この2者の差が地下へ流れ出た汚染水の量です。ところが注水量より汚染水の処理量が多くなる日があるという発表がありました。大雨が降ったり、台風が来ると毎日500トンもの余分な水を処理しているという断片的な発表がありました。この発表は重大です。何故なら、雨の降らない乾燥した日が数日続いた場合は地下へ多量の汚染水が流れ出ていることを示しているから重大な発表なのです。
「雨水が漏れて入ってくる」と発表すれば汚染水は流れ出ていないという印象を与えます。こういうのを情報操作による人心の誘導というものです。残念です。東京電力は公明正大に全ての定量的なデータを発表すべきです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
織田寧人@風工房という写真を主にしたブログを「推薦したいブログ」として新たに追加しました。
その理由は、(1)写真が鮮明で美しい、(2)全国各地の風景、建物、鉄道などくまなく撮っている、(3)撮影対象に関する記録が整然と掲載されている、(4)数多くの写真が撮影対象毎にきちんと分類されいる、(5)そして一番重要な理由は、写真を撮っている織田さんの精神性が深く、一枚一枚の写真に心が籠もっているのです。
その一例として「古寺巡礼」の中から富山県の千光寺の写真を下にご紹介します。真言宗のお寺で703年に創建された古刹です。巡礼ですからお寺を訪ね、お釈迦様に祈るのです。人気の無い、静かな境内には織田寧人さんの押すシャッターの音だけが響いています。そのシャッターの音が聞こえるような写真です。
尚、今まで「推薦したいブログ」の中に木内光夫さんが主宰する岩漿文学会のホームページがありましたが、木内さんが岩漿文学会のHPを中止することにしたので削除しました。今までのご愛顧に感謝致します。
1969年に軍事クーデターでリビアの王制を崩し、独裁者になったカダフィ大佐が昨日殺されたという報道がありました。40年にわたる反米独裁政権が終了したのです。
NATO軍が空爆を9600回も繰り返したので、彼の死亡は時間の問題でした。
私の興味は実際のNATO軍の編成と指揮権がどのようになっていたかという事です。日本人はNATO軍事同盟をとかく軽視しがちですが、その作戦行動は常にアメリカ軍が指揮権を持って実行されて来たのです。この指揮権に関しては、日本とアメリカの間の日米安保軍事同盟で日米が協力して敵国と戦う時も同様です。
ヨーロッパでもアジアでもアメリカが指揮権を持つという事実の重さを私はいつも考えています。それは国際間の外交交渉や経済交流に深い所で影響しています。
ところが驚いたことに、今回のNATO軍の指揮権はイギリスとフランスが握り、アメリカ軍は後方支援をしたに過ぎません。これはNATO発足以来、初めての事です。
NATO軍の盟主はアメリカなのにリビア作戦では、初めて英仏へ指揮権を渡したのです。正確に言えば3月19日に作戦開始し、3月31日まではアメリカ軍が指揮権を持っていましたが、3月31日にイギリスとフランスへ引き継いだのです。
アメリカはこれ以上イスラム圏からの憎悪が強くなるのを避けたのです。そして、もともと石油の権益を持っていた英仏へ主導権を渡し、英仏とアメリカの関係を良くしようとしたのです。アメリカの作戦本部へ指揮権を英仏へ渡せと命令したのはアメリカ政府です。これをシビリアン・コントロールと言います。
そのような事が想像出来るような背景の説明が今日の新聞の国際ニュースのページに出ていました。国際ニュースのページは何時も興味深い解説的な報道が有るので感心しています。
その国際ニュース欄にロシアのトップのプーチンさんが旧ソ連圏であった国々を一つの自由貿易圏にしようとしているニュースがありました。EUやアセアン経済圏に対抗して「ユーラシア同盟」の確立を狙った運動です。
わたしは旧ソ連圏がまた団結したら困ったことになると、ここ数日心配していました。
ところが今日の新聞で、そのプーチンさんの構想に賛同しているのは、ロシアとベラルーシとカザフスタンの3国だけのようです。旧ソ連圏だったウクライナやグルジア、トルキスタン、などなどはあまり乗り気ではないようです。勿論、ポーランド、チェコ、ソロバキヤ、ルーマニア、ブルガリアなどなどはEUへ参加したがっています。
プーチンさんがいくら頑張っても昔のソ連圏の団結と再編成は非常に困難なようです。むしろ日本、中国、韓国、台湾、アセアン諸国、そしてアメリカの太平洋自由貿易圏の確立のほうが容易なようです。
それにしても世界の歴史は毎日、毎日、どんどん変わって行くものです。
さて国内ニュースに目を向けると、郵便局がユニクロと提携してヒートテック下着の郵送販売を始めたという面白いニュースがありました。これが何故面白いのかと言うと、郵便局が小売業を始めて良いのかという問題になるからです。もしそれが許されるなら商品の流通が変化するでしょう。なにせ郵便局は個人情報を持っている上に販売した物を配達する機能を持っているからです。
その上、ユニクロは何時も混んでいてヒートテックがなかなか買えないのです。今日は郵便局へ買いに行こうと思っています。
急に我が家のニュース写真です。昨日、小金井公園に行きましたが隣の畑に夕顔がゴロゴロしているのを発見しました。
そうしたら家内がその傍にお茶の花が綺麗に咲いていると感激して写真を撮っていました。三木露風の、「わたしは茶の花が好きです・・・」という詩をくちずさんでいました。これは毎年、秋が深まると聞ける詩の一節です。下に夕顔とお茶の花の写真をお送りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人
皆様は写真の撮影には自信がおありでしょうか?
私は何年撮っていても一向に上手になりません。そこで他の方々のブログやホームページを沢山見て、写真の撮り方を勉強しています。
すると時々感動的な写真を沢山撮っていらっしゃる方を発見します。画像が鮮明だけでなく私の心を強くゆさぶるような傑作写真です。
心が揺さぶられるということは、写真を撮っている人の心が写真の対象へ感動しているからです。いや尊敬しているのかも知れません。対象を愛しているのかも知れません。何事かを祈っているのかも知れません。
そのような写真集として、織田寧人さんの:「写真紀行★風に吹かれて」に出会いました。さっそく3枚の写真の転載許可のお願いのメールを送りました。
先程、許可するというご返事を頂いたので上に示しました。一番上の写真が脇浜天主堂の写真で、下の2枚は堂崎天主堂の写真です。場所については下記のURLをご覧下さい。
「写真紀行★風に吹かれて」のURLは、http://www.ne.jp/asahi/oda/kaze/ です。
ヨーロッパを車で旅をしていると時々中世時代そのままの町や村を通過することがあります。
このDunkelsbuhlはシュツットガルトからローテンブルグへ通った折にいつも通り過ぎる町で、ロマンティッシュ・シュトラーセに沿った中世そのままの町です。
町に入ると下の写真のように狭い道を自転車や歩行者がゴチャゴチャと通っています。車は注意深く徐行しながら、中世以来のデコボコな石畳の道路を走ります。
旧市街には、まん中の写真のような古いホテルがあります。
何度か通過していると一番下の写真に見るようなお祭りがあって、旧市街地区は通行禁止になっていることに往生したこともありました。城壁の外側を急拵えの回り道を通って大きな道へ出ました。
ドイツの中世の町々の旧市街の多くは高い城壁に囲まれていて、良く昔のままに保存されています。鉄道の駅は城壁の外側に作ります。この旧市街の外側に新しい住宅やビルを作り、新市街を作ります。従って中世の町と近代の街が並んで存在しています。旧市街には毎朝、農民の開く朝市があります。スーパーマーケットや大型量販店は存在しません。それらは城外の新市街地区にあるのです。
日本では古い街は取り壊して、どんどん新しい建物を作ります。わずかに木曽路の馬籠宿や妻籠宿、そして奈良井宿など、そして会津の大内宿が例外的によく保存されているに過ぎません。この違いはドイツ文化を深く理解するとき重要なことと思っています。
下に3枚の写真とDunkelsbuhl市の市長さんの挨拶文を掲載致します。
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