後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏になると思い出す大空襲、そして空襲したアメリカ兵と友人になる」

2024年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、毎年、8月15日の終戦の日が近づくと大空襲の光景を思い出します。
当時私は国民学校3年生でした。私が立っていた小高い山の眼下に一面に燃え盛る仙台市が広がっていました。一夜にして焼け野原になりました。B29が123機来襲して一気に焼く尽くしたのです。

そして全国の数多くの都市が、1945年7月に、アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされたのです。
戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。下記のように日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、東京都の区の存ずる区域,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、高松市 、

徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町,枕崎町,山川町,垂水町,東市来町,西ノ表町 (沖縄は当時、アメリカ領)

1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。
9歳であった僕は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。

1番目の写真は焼野原になった仙台です。写真の出典はWikipedeaより。

それから15年後にオハイオ州立大学へ留学したとき、クラスメイトに14歳年上のオートンさんという空軍大佐が居ました。

2番目の写真はB29です。
B29写真の出典:http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/ok_b29.museum.html
オートンさんは戦争中はこの写真のようなB29に乗り組んでいたそうです。
どういう訳かオートンさんとは親友になり彼が死ぬまで交友が続きました。
オートンさんはB29爆撃機を操縦して日本へ何度も飛んできて焼夷弾を落とした男です。大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。
面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後は大学の先生になろうと博士課程を取っていました。

オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。
憎しみも悲しみもない走馬灯のように。 オートン氏は2006年の末に亡くなりました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけです。

3番目の写真はアメリカ軍の墓地です。オートンさんはこのような墓地に眠っています。墓地の写真の出典:http://www.remus.dti.ne.jp/~aga/wdc/106.html

いくら年をとっても仙台の大空襲の光景とオートンさんの思い出が一緒になって私の目に見えるのです。

それにしても凄惨な戦争でした。

亡くなった日本の人、アメリカの人のご冥福をお祈り申し上げます。後藤和弘

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