汝の敵を愛せと言ったイエス様。愛の平和の宗教と言われるキリスト教。
そのヨーロッパのキリスト教徒が狂気になってイスラム圏の中近東へ何回も攻め込んだのが十字軍です。
攻め込んだだけでなく、中近東の各地に城塞都市を作り、「十字軍国家」をいくつも作ったのです。その名前は、アンティオキア公国やトリポリ伯国やアッコンを首都にしたエルサレム王国などがありました。現在のレバノンにも幾つかの十字軍国家があったのです。
これらの十字軍が作った城塞の写真を下に示します。
・ベイルートとトリポリの中間にある都市ビブロスに残る十字軍の築いた城です。
写真の出典は、Wikipedeaのカラク (ヨルダン)です。
上はシリアにあるクラック・デ・シュヴァリエ城です。十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。十字軍時代は聖ヨハネ騎士団の本拠であり、名前は「騎士の砦」を意味しています。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%A8です。
以下の文章の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8Dです。
======最後の第9回十字軍の後=========
マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの元でイスラム側は攻勢を強め、1268年にはアンティオキアを陥落させてアンティオキア公国を完全に滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民のすべてを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワード(エドワード1世)とルイ9世の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。以後、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡し、1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここに十字軍国家は全滅した。
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。
======アンティオキア公国とは================
第1回十字軍以前は、アンティオキアはセルジューク朝の総督ヤギ・シヤーンが治める難攻不落の城塞都市だった(ただし、セルジューク朝征服以前からのギリシア人住民も多く、東ローマ帝国はここを帝国固有の領土と考え[1]、セルジューク朝から回復しようと考えていた)。第1回十字軍遠征の際、アンティオキア攻囲戦において活躍した南イタリアのノルマン人封建君主であるターラント公ボエモンは攻略中からこの都市の領有の希望を公言するようになり、1098年、半年に渡る包囲の末にアンティオキアが陥落し市民の虐殺と略奪が終わると、この地の君主(公)に就任し、アンティキアを首都とするアンティオキア公国が建設された。ボエモンは十字軍の本来の目的であったエルサレム攻略への参加を止め、アンティオキア公国の確立に専念することになる。
上の文章の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%A2%E5%85%AC%E5%9B%BDです。
=====エルサレム王国(1099年 - 1291年)=============
エルサレム王国(1099年 - 1291年)は、11世紀末西欧の十字軍によって中東のパレスチナに樹立されたキリスト教王国。十字軍国家の一つ。
ローマ教皇の呼びかけに応えて聖地エルサレムへ向かった第1回十字軍は、1099年にエルサレムを占領し、十字軍の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(聖墓の守護者)に任ぜられた。これはゴドフロワが、キリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからである。ゴドフロワはエルサレムを拠点に残存するムスリム勢力の駆逐や農村の襲撃を行ったが、1100年にエルサレムで没した。弟のエデッサ伯ボードゥアン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗った。こうして十字軍国家「エルサレム王国」が誕生する。
エルサレム王は当初は十字軍によって征服されたエデッサ伯領、アンティオキア公国、トリポリ伯領といった十字軍国家に対する宗主権も有していた。イタリアの都市国家であるヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサがヨーロッパとの海上交通や兵站路を確保するとともにレバント貿易に従事した。
元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍であり、現地に建てられた諸侯国もエデッサ伯領(ブローニュ伯など北フランス諸侯)、アンティオキア公国(南イタリアのノルマン人諸侯)、トリポリ伯領(トゥールーズ伯など南フランス諸侯)とそれを反映し、お互いに対立していた。さらに、現地生まれの諸侯は異教徒と融和し共存を目指し始めたのに対し、新来の十字軍や教会関係者はイスラム教徒との戦闘を要求したため、王国の方針は常に定まらなかった。エルサレム王国は近隣のムスリム都市ダマスクスと協力し、聖地騎士団の活躍により何とか領土を維持していたが、1144年にセルジューク朝の武将ザンギーにエデッサ伯領を奪回され、これに対して派遣された第2回十字軍が成果を収めず撤退し、ダマスクスがザンギーの息子ヌールッディーンに支配されたため、状況はいっそう悪化した。
(以上の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E7%8E%8B%E5%9B%BDです。)