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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

江戸時代に日本海の北前船が何故栄えたか?(1)江戸時代の大型帆船の苦難のセイリングの実態

2010年11月26日 | インポート

以前から何故、北前船が栄え、一方太平洋航路の江戸ー大阪間の航路が北前船ほど重用されていなかったか不思議に思っていました。越前、越後、酒田などの日本海側の町々が裕福になっていた時代が続いたのか不思議に思っていました。

それを考える手がかりとして、江戸時代の帆船の操船技術の実態を調べてみました。初めに江戸から太平洋を渡って八丈島へ帆走した記録があるので、ご紹介いたします。日本海を北上して松前に帆走する場合と比較したいと思います。

伊豆諸島の順察をして「南汎日録」を書いた代官、羽倉簡堂の海上の苦難ぶりを、「八丈るんるんガイド」2008Vol.14秋号から抜粋して紹介します。

使用した船は八丈島預かりの江戸の大型官船で、長さ11間、巾3間の一本マストの外洋帆走用の船であった。船頭と水夫9人が乗り込み当時としては頑強さ、航行能力に優れ頼りになる島通いの大型官船であった。

1839年4月22日、一行は数艘の船隊を組み江戸の鉄砲洲を出発した。大島、利島、新島、神津島、を視察し、5月18日に三宅島へ到着した。ここまでは幸運にも風向きが良く問題なく帆走出来た。

しかし、三宅島からが苦難のセイリングとなる。簡略に書く。

5月27日三艘で、遠方に見える御蔵島へ出発。始めは風向きも良かったがしばらくして八丈島が見えだした頃、荒天になり一艘は転覆し、残りはなすすべもなく出発した三宅島へ漂着する。

6月2日態勢を整えて出発するが、風が逆風になり大島まで戻ってしまう。

6月7日大島出港、八丈島直行を試みるが、式根島へ流される。

6月8日式根島を出て八丈島へ向かうが逆に伊豆の三崎港まで戻ってしまう。

6月27日式根島を出港し八丈島を目指す。

7月1日八丈島の見えるところに達するが、今度は西風に吹かれ、東の遥か太平洋上まで流される。200海里も流された後、東風に変わる。この幸運を必死でつかみ西へ帆走する。ついに午後8時頃、八丈島の西の八丈富士の麓の小さな浦、荷浦に到着することが出来た。

三宅島を出発したのが5月27日、八丈島へ到達したのが7月1日であった。実に1ケ月以上行ったり来たりの苦難なセイリングであった。

三宅島と八丈島の間には黒潮の主流が西から東に流れ難所である。

それにしても現在の外洋帆走洋用の長さ12メートル位のクルーザーは三宅島と八丈島の間は10時間位のセイリングという。

GPSや天気予報の有無もあるが、決定的な違いは風に向かって登れるか否かの性能の違いと思う。帆船の設計の進歩の大きさに感慨無量です。(続く)


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