昨日見た『ランス美術館展』には感動的な絵が少なく、あまり尊敬出来ない企画展でした。
しかし藤田嗣二の最晩年のキリスト教関連の作品群が多数展示してあったのが印象的でした。
彼は毀誉褒貶の多い波乱万丈の一生を過ごしました。その晩年にカトリックの洗礼を受け、ランス市のシャンパン製造会社のルネ・ラルー社長の支援で「平和の聖母礼拝堂」を建て、その壁画とステンドグラスの原画を心静かに描いたのです。昨日の展覧会では、これらの原画が多数展示してありました。
嗚呼、レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。私は何故か深く安堵し、展覧会の会場を出ました。
そこで今日は彼の一生を振り返ってみたいと思います。
(1)藤田嗣二の出生、そして絵が不評でフランスに行くまで
彼は1886年11月27日に東京で生まれ、 1968年1月29日にスイスで没しました。享年82歳でした。
父の藤田嗣章は陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物でした。兄の嗣雄は法制学者で上智大学教授でした。兄の妻の父は陸軍大将児玉源太郎でした。
このような家系が、後に藤田が軍部に協力し数多くの戦争画を描くようになった原因かも知れません。
藤田は子供の頃から絵を描き始めます。
森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校の西洋画科に入学します。
しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされていました。それに失望した藤田は、観劇や旅行を楽しみ、吉原に通いつめるなどしていたのです。
1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品しましたが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選しています。
この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚しました。新宿百人町にアトリエを構えますが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻します。その後彼はフランスで結婚と離婚を繰りかえしたのです。
(2)藤田の「乳白色の肌」の絵画が高く評価されパリ画壇の寵児となる
1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受けます。パリの絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、藤田は今までの作風を全て放棄することを決意しました。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っています。
シェロン画廊で開催された最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモン(en:André Salmon)が紹介文を書き、高い評価を受けました。すぐに絵も高値で売れるようになります。
滑らかな乳白色の肌と面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立します。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができたそうです。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まり『パリ画壇の寵児』ともて囃されるようになりました。

1番目の写真は『眠れる女』と題される作品です。サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こしたそうです。

2番目の写真は『カフェにて』という作品で胸もとの肌が独特の透きとおるような手法で描いてあります。

3番目の写真はパリ画壇の寵児として持て囃されていた頃の写真です。藤田は左奥の眼鏡をかけた人です。このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていたそうです。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られます。
2人目の妻、フェルナンドとは不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚します。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚します。
1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かいます。個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に見て、1万人がサインのために列に並んだといわれています。
このような華やかな生活をしていた藤田の運命が暗転するのです。
(3)日本への帰国し、陸軍美術協会理事長になり戦争画を描く
藤田は1933年に帰国します。そして2年後、1935年に25才年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添ったのです。
さて藤田の運命が暗転した後の話は長くなりますので続編で書くことにします。
藤田嗣二はその独創性があだになり日本では評価されませんでした。そして画風にも何故か病的な雰囲気があり敬遠されることもあります。しかし戦争画は戦中の日本で絶賛されます。その後の藤田の運命は続編で書きます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
しかし藤田嗣二の最晩年のキリスト教関連の作品群が多数展示してあったのが印象的でした。
彼は毀誉褒貶の多い波乱万丈の一生を過ごしました。その晩年にカトリックの洗礼を受け、ランス市のシャンパン製造会社のルネ・ラルー社長の支援で「平和の聖母礼拝堂」を建て、その壁画とステンドグラスの原画を心静かに描いたのです。昨日の展覧会では、これらの原画が多数展示してありました。
嗚呼、レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。私は何故か深く安堵し、展覧会の会場を出ました。
そこで今日は彼の一生を振り返ってみたいと思います。
(1)藤田嗣二の出生、そして絵が不評でフランスに行くまで
彼は1886年11月27日に東京で生まれ、 1968年1月29日にスイスで没しました。享年82歳でした。
父の藤田嗣章は陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物でした。兄の嗣雄は法制学者で上智大学教授でした。兄の妻の父は陸軍大将児玉源太郎でした。
このような家系が、後に藤田が軍部に協力し数多くの戦争画を描くようになった原因かも知れません。
藤田は子供の頃から絵を描き始めます。
森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校の西洋画科に入学します。
しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされていました。それに失望した藤田は、観劇や旅行を楽しみ、吉原に通いつめるなどしていたのです。
1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品しましたが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選しています。
この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚しました。新宿百人町にアトリエを構えますが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻します。その後彼はフランスで結婚と離婚を繰りかえしたのです。
(2)藤田の「乳白色の肌」の絵画が高く評価されパリ画壇の寵児となる
1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受けます。パリの絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、藤田は今までの作風を全て放棄することを決意しました。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っています。
シェロン画廊で開催された最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモン(en:André Salmon)が紹介文を書き、高い評価を受けました。すぐに絵も高値で売れるようになります。
滑らかな乳白色の肌と面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立します。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができたそうです。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まり『パリ画壇の寵児』ともて囃されるようになりました。

1番目の写真は『眠れる女』と題される作品です。サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こしたそうです。

2番目の写真は『カフェにて』という作品で胸もとの肌が独特の透きとおるような手法で描いてあります。

3番目の写真はパリ画壇の寵児として持て囃されていた頃の写真です。藤田は左奥の眼鏡をかけた人です。このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていたそうです。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られます。
2人目の妻、フェルナンドとは不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚します。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚します。
1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かいます。個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に見て、1万人がサインのために列に並んだといわれています。
このような華やかな生活をしていた藤田の運命が暗転するのです。
(3)日本への帰国し、陸軍美術協会理事長になり戦争画を描く
藤田は1933年に帰国します。そして2年後、1935年に25才年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添ったのです。
さて藤田の運命が暗転した後の話は長くなりますので続編で書くことにします。
藤田嗣二はその独創性があだになり日本では評価されませんでした。そして画風にも何故か病的な雰囲気があり敬遠されることもあります。しかし戦争画は戦中の日本で絶賛されます。その後の藤田の運命は続編で書きます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)