昨日、「老境の幸せと達観の境地の具体的な説明」と題する記事を掲載しました。
そうしたら22人の高齢者の方々からコメントを頂きました。
驚くべきことに大部分の方々が達観の境地にあるようなのです。ですから多くの高齢者は幸せに暮らしているのです。この日本に感謝します。生きていることに感謝します。
そこでもう一度達観の境地とはどのようなものか個条書きにしてみます。
(1)偉くなろう、お金を儲けようと一切思わない。
(2)病気の心配をしない、病気を苦に思わない。
(3)子供や孫の将来を心配しない。
(4)国内政治に不満を感じない、政治は若者に任せる。
(5)敵対する外国を許し、国の安全と外交も若者に任せる。
(6)生きているだけで幸せと感じるような訓練を続ける。
さて昨日は達観の境地に関する記事を出してから、9時半頃に家を出発して甲斐駒岳の麓の深い森の中へ行ってきました。
そうしたら深い森には神々が住んでいると感じたのです。
一瞬ではありましたが、森の精霊が暗い樹々の間を飛んでいるのが見えるような気がしたのです。
そこで皆様をその深い森にご案内したいと存じます。

1番目の写真は昨日の甲斐駒岳と山稜の上に不思議な形で空に広がる雲の写真です。昨日は梅雨の晴れ間でしたが上空は気流が乱れているようで青空が見えたり不気味な雲が踊ったりしています。写真の撮った場所は北杜市武川町の石空川の岸です。

2番目の写真はこれから入っていく森のたたずまいです。

3番目の写真は森の奥にある小屋に上っていく道です。未舗装の悪路で暗い森の中を根気よく上って行きます。

4番目の写真は到着した小屋の周囲に茂る雑木林の様子です。

5番目の写真は何時行っても変わらず清い水が流れている小屋の前の小川です。
昨日は時折青空も見えましたが曇り日だったので森の奥は暮れかかった夕方のようでした。
遠方で小鳥の鳴くこ声がかすかに聞こえてきます。小川の水音だけが静かな森に響いています。
6月に行ったときはハルゼミが賑やかに鳴いていましたが昨日は静まり返っています。
そんな中で1時間ほどぼんやりしていると周りの森の中に神々が住んでいるような気がします。気のせいか一瞬ですが、森の精霊が樹と樹の間を飛んでいるのが見えるような気分になります。
嗚呼、これが原始的な宗教の生まれていく感じなのだと判かったのです。いや正確には判ったような気分になっただけかも知れません。
大きな樹木や山を信仰の対象にする気持ちが理解できたのです。神道という宗教はこのような人間の感じ方から始まったのかも知れません。
そしてこの自然と共に生きているだけで幸せと感じたのです。それは達観の境地かもしれません。
そして仏教の教えを想います。俗な欲望を捨てれば悟れます。悟ってしまえば恐れることがすべて無くなります。この世のことは空なのです。
執着心があるかぎり悟りの境地に入れません。死んだ後、自分の墓に執着してはいけません。遺骨は野に捨てなさい。像を拝んではいけません。色即是空、空即是空ということを深く理解し、それを信じればおのずと悟りの境地に入れるのです。
この上の文章の悟りの境地と「達観の境地」は似ています。
そう言えばお釈迦さまが悟りを開いたのは菩提樹の下と伝えられています。人間と樹木には何か深い関係があるのでしょうか。
さて昨日見たような深い森には神々が住んでいます。するとその神々を治める力のある神が一人いると考えるのも自然なことではないでしょうか。その一人の神は広大な宇宙の星空のかなたに住みたまう全知全能の神です。宇宙を創り、宇宙の全てを支配している一人の神です。
この発想が一神教を生んだのでしょうか。イスラム教やキリスト教はこのようにして育って行ったのもかも知れません。
昨日、深い森の中でフッと思いついたことです。真偽の程は知りません。間違っていると思いますが、こんなことを考えながら中央高速道路を走って帰って来ました。昨日の日記です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
そうしたら22人の高齢者の方々からコメントを頂きました。
驚くべきことに大部分の方々が達観の境地にあるようなのです。ですから多くの高齢者は幸せに暮らしているのです。この日本に感謝します。生きていることに感謝します。
そこでもう一度達観の境地とはどのようなものか個条書きにしてみます。
(1)偉くなろう、お金を儲けようと一切思わない。
(2)病気の心配をしない、病気を苦に思わない。
(3)子供や孫の将来を心配しない。
(4)国内政治に不満を感じない、政治は若者に任せる。
(5)敵対する外国を許し、国の安全と外交も若者に任せる。
(6)生きているだけで幸せと感じるような訓練を続ける。
さて昨日は達観の境地に関する記事を出してから、9時半頃に家を出発して甲斐駒岳の麓の深い森の中へ行ってきました。
そうしたら深い森には神々が住んでいると感じたのです。
一瞬ではありましたが、森の精霊が暗い樹々の間を飛んでいるのが見えるような気がしたのです。
そこで皆様をその深い森にご案内したいと存じます。

1番目の写真は昨日の甲斐駒岳と山稜の上に不思議な形で空に広がる雲の写真です。昨日は梅雨の晴れ間でしたが上空は気流が乱れているようで青空が見えたり不気味な雲が踊ったりしています。写真の撮った場所は北杜市武川町の石空川の岸です。

2番目の写真はこれから入っていく森のたたずまいです。

3番目の写真は森の奥にある小屋に上っていく道です。未舗装の悪路で暗い森の中を根気よく上って行きます。

4番目の写真は到着した小屋の周囲に茂る雑木林の様子です。

5番目の写真は何時行っても変わらず清い水が流れている小屋の前の小川です。
昨日は時折青空も見えましたが曇り日だったので森の奥は暮れかかった夕方のようでした。
遠方で小鳥の鳴くこ声がかすかに聞こえてきます。小川の水音だけが静かな森に響いています。
6月に行ったときはハルゼミが賑やかに鳴いていましたが昨日は静まり返っています。
そんな中で1時間ほどぼんやりしていると周りの森の中に神々が住んでいるような気がします。気のせいか一瞬ですが、森の精霊が樹と樹の間を飛んでいるのが見えるような気分になります。
嗚呼、これが原始的な宗教の生まれていく感じなのだと判かったのです。いや正確には判ったような気分になっただけかも知れません。
大きな樹木や山を信仰の対象にする気持ちが理解できたのです。神道という宗教はこのような人間の感じ方から始まったのかも知れません。
そしてこの自然と共に生きているだけで幸せと感じたのです。それは達観の境地かもしれません。
そして仏教の教えを想います。俗な欲望を捨てれば悟れます。悟ってしまえば恐れることがすべて無くなります。この世のことは空なのです。
執着心があるかぎり悟りの境地に入れません。死んだ後、自分の墓に執着してはいけません。遺骨は野に捨てなさい。像を拝んではいけません。色即是空、空即是空ということを深く理解し、それを信じればおのずと悟りの境地に入れるのです。
この上の文章の悟りの境地と「達観の境地」は似ています。
そう言えばお釈迦さまが悟りを開いたのは菩提樹の下と伝えられています。人間と樹木には何か深い関係があるのでしょうか。
さて昨日見たような深い森には神々が住んでいます。するとその神々を治める力のある神が一人いると考えるのも自然なことではないでしょうか。その一人の神は広大な宇宙の星空のかなたに住みたまう全知全能の神です。宇宙を創り、宇宙の全てを支配している一人の神です。
この発想が一神教を生んだのでしょうか。イスラム教やキリスト教はこのようにして育って行ったのもかも知れません。
昨日、深い森の中でフッと思いついたことです。真偽の程は知りません。間違っていると思いますが、こんなことを考えながら中央高速道路を走って帰って来ました。昨日の日記です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)