この前の記事では東京の観光として奥多摩の山岳道路と奥多摩湖をご紹介しました。
今回は大島と波浮の港をご紹介いたします。
さて、戦後すぐの少年の頃、「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、波浮の港は夕焼け小焼け、、、」という歌がラジヲから流れていました。歌の意味は、島の娘が波浮からの船の艫綱を泣いて解く、、、船出する人と見送りに来た人が別れを悲しんでいます。鵜の鳥は日暮れに帰るがその人は帰らない、、、。
そんな悲しい歌なので忘れられません。仕事を一切止めてから、彼方此方へ旅をすることにしました。そんな時、大島の波浮の港へ独り旅しようと思い立ちまじた。

1番目の写真は大島の中心にある三原山です。活火山です。
朝、竹橋桟橋から高速に乗ると昼前に大島に着きます。観光客で騒がしい岡田港の交通案内所で波浮の港へ行って一泊したいと相談しました。対応してくれた若い女が、「あそこは観光客は行きませんが。何をしに行くのですか?」と聞きます。そして国民宿舎をとってくれました。バスで行きました。宿に着くと高台にあり、火口湖のように丸い波浮港が見下ろせます。

写真は、http://blog.livedoor.jp/zuifuuino/archives/52120612.html からお借りしました。
宿からの景色が良いのですが、憧れの波浮の港までは遠すぎます。
港へ行って地魚の寿司を食べようと思いましたがタクシーがありません。すると宿の人が電話してくれて寿司屋さんが迎えに来てくれることになりました。元気なオバサンが軽自動車を運転して迎えに来ました。
曲がりくねった急な坂道を降りて行き、そこ一軒だけの店に着きます。

3番目の写真は波浮の港の町並で、このような場所に寿司屋がありました。
この写真は、http://www.asahi.com/travel/bicycle/TKY201204060190.html からお借りしました。
地魚の島寿司を頼みました。「島寿司」とは地魚の握りの上に、どういう訳か甘ったるい醤油が塗ってあるのです。ワサビでなくカラシです。甘い魚の寿司なのです。
店の中には2組の客が居て日本酒や焼酎を飲んでいます。客が、寿司を握っている60過ぎの主人や手伝っている息子やその嫁と雑談をしています。
見ると店の壁に古い写真が沢山飾ってあります。波浮の港に木造漁船がビッシリと並んでいる写真です。港の通りには漁師が溢れ、居酒屋が軒を連ねています。
主人に聞くと昔は漁船の船足が遅く、この港が太平洋での漁の中継基地として賑わったそうです。今は船が高速化して、取れた魚を冷凍し、積んだまま築地の魚河岸へ直行するのです。
だれも波浮の港へ寄らなくなり、すっかりさびれました。と主人が淋しそうに言います。
そして島では火山灰が土地を覆っていて米が取れなく、昔から貧しい所だったと説明してくれます。私は地魚の刺身と「亀の爪」という一品を注文しました。
亀の爪のように見える小さな一枚貝が、磯の岩にしがみついているそうです。不味い貝です。普通には食べるものではない代物です。
亀の爪を食べていると、少年の頃聞いた島の娘の悲しい歌が実感として感じられるのです。
酔い醒ましに、暗い港通りを散歩すると、店も居酒屋も無く真っ暗な通りなのです。淋しげな波音だけが響いていて、通りが尽きた浜辺に「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、」の野口雨情の記念碑が立っています。

4番目の写真は波浮の港の風景です。
波浮の港へ行ったのは3月の始めでした。町を歩いていると寒い夜風が吹き抜けて行きます。
もとの店へ戻り、もう一杯飲み暖まってから帰ることにしました。帰りは赤ん坊を連れた嫁が、軽乗用車で高台の宿まで送ってくれました。助手席に赤ん坊を乗せているので丁寧な運転です。道々、乳飲子の自慢話を聞かせてくれたのでこちらも明るい気分になりました。

5番目の写真は大島の南端にある波浮の港近辺の地図です。
私の行ったのが3月のせいで観光客が居ませんでした。しかし、夏には波浮の港も釣り客やダイビング客で賑わうそうです。
皆様、是非波浮の港へ泊まりに行って下さい。港通りのお寿司屋さんへも行って下さい。島寿司でなく普通の握りにしたほうが無難です。
それから大島ではレンタカーがお薦めです。波浮の港へはバスしかありません。レンタカーですと大島の海岸沿いを一周出来ます。三原山の火口近くまで車で登れます。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================
(1)昭和の流行歌、「波浮の港」について、
https://ja.wikipedia.org/wiki/波浮の港
この流行歌はまだ大正時代だった1923年に野口雨情が発表した詞に、中山晋平が作曲した歌曲でした。
レコードは1928年5月に佐藤千夜子が日本ビクターから、その2ヶ月後の7月には藤原義江が同じくビクターから高額な赤盤レコードとして発売されます。
昭和初期の伊豆大島は、観光とは無縁の離島で、島の南東部にある波浮港村は、島の中心部の新島村からも三原山を挟んで反対側にあるわびしい漁村でした。
当時は東京からの船便もなく、雨情は現地には全く行かず、地図さえも確かめずに詩を書いたそうです。
歌詞
磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら
船もせかれりゃ 出船の仕度
島の娘たちゃ 御神火暮らし
なじょな心で ヤレホンニサ いるのやら
島で暮らすにゃ 乏しゅうてならぬ
伊豆の伊東とは 郵便だより
下田港は ヤレホンニサ 風だより
風は潮風 御神火おろし
島の娘たちゃ 出船の時にゃ
船のとも綱 ヤレホンニサ 泣いて解く
磯の鵜の鳥ゃ 沖から磯へ
泣いて送らにゃ 出船もにぶる
明日も日和で ヤレホンニサ なぎるやら
(2)波浮の港の歌、
佐藤千夜子
https://www.youtube.com/watch?v=jL0-Va80y8A
藤原義江
https://www.youtube.com/watch?v=pF455p_Ocl8