最近、日本で徳富蘇峰の書いた「終戦後日記」という本が話題になっています。
日本の軍国主義を鼓舞し続けたことで有名な蘇峰が再評価されているようです。
その事が日本の将来にとって良い傾向なのか悪い傾向かは分りません。
日本人が自らの判断で戦争へ続く可能性のある階段を少しずつ登り始めたのです。それは巨大な潮流です。新しい歴史の一ページなのです。
良い結果になるかも知れません。悪い結果になるかも知れません。
このような時代になると蘇峰の実弟でロシア文学者であった徳富蘆花のことが思い出されます。下に全く違った生涯を送った兄弟の写真を示します。
左が蘇峰で、右が蘆花です。
徳富蘇峰の記念館はあちこちにあります。蘆花の記念館は東京の芦花公園の中にあります。下は蘆花記念館です。
山中湖のほとりの雑木林の中に立派な鉄筋コンクリート製の徳富蘇峰記念館があります。そしてその向かい側には自衛隊本部に乗り込んで檄をとばし、自決した三島由紀夫の記念館もあります。
私は山中湖の蘇峰記念館と三島由紀夫記念館を3度訪問しました。
芦花公園の中にある蘆花記念館も3度訪問しました。
同じ父母から生まれた兄弟の人生があまりにも大きく異なっていることに興味を覚えたからです。そして明治維新以後の日本の近代化の特徴が理解出来て興味深いのです。
蘇峰記念館では富国強兵のいきさつとその光景が見えます。
そして蘆花記念館では、それとはまったく別の世界における西洋文学の輸入の担い手の努力と苦労の様子が伺えられるのです。
すでに老齢になっていたトルストイ夫妻が蘆花と一緒に馬車に乗って、ロシアの疎林の中を散策している写真に何故か感動しました。トルストイに親近感を感じたのかも知れません。
私は蘇峰と蘆花と比較してどちらが偉かったかという判断はしません。
どちらが好きかと問われれば蘆花と答えます。しかり蘇峰は日本の富国強兵に巨大な貢献をしたのも事実です。
最近、徳富蘇峰の「終戦後日記」が売れ、再評価されているようです。
それはそれで良いのですが、是非、徳富蘆花もお忘れなく、出来たら芦花公園の中の記念館をお訪ねください。明治維新以来の社会の変遷をいろいろな角度から考える大きなヒントになります。
それにしても明治は遠くなったものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==================
戦争中の徳富蘇峰の活躍:
昭和6年(1931年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズムないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。 昭和10年(1935年)に『蘇峰自伝』、同14年(1939年)に『昭和国民読本』、同15年(1940年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、昭和12年(1937年)6月に帝国芸術院会員となった。昭和15年(1940年)9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を首相・近衛文麿に提出し、太平洋戦争の始まった昭和16年(1941年)には首相・東條英機に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔書を添削している。 昭和17年(1942年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は、内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれた。ここでは、皇国史観で有名な東京帝国大学教授・平泉澄や、京都帝国大学の哲学科出身で京都学派の高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高らの発言権が大きかった。 昭和18年(1943年)4月に蘇峰は、三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年、蘇峰は80歳であり、三叉神経痛や眼病を患うようになったが、『近世日本国民史』の執筆は病気をおして継続している。 昭和19年(1944年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。 終戦にあたっては、昭和20年(1945年)7月にポツダム宣言が発せられたが、蘇峰は無条件降伏の受諾に反対。昭和天皇の非常大権の発動を画策したが、実現しなかった。 以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0に続く。 徳富蘆花の生涯:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%86%A8%E8%98%86%E8%8A%B1 横井小楠門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として肥後国に生まれる。熊本バンドの1人として同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、トルストイに傾倒する。後年、夫人とともに外遊の際、トルストイの住む村を訪れ、トルストイと会見した。そのときの記録『順礼紀行』は、オスマン帝国治下のエルサレム訪問記も含めて、貴重な記録となっている。 兄で思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰の下での下積みの後、自然詩人として出発し、小説『不如帰』はベストセラーになった。また、随筆『自然と人生』はその文章が賞賛され、一気に人気作家となった。しかし、国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となり、1903年(明治36年)に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となる。 1906年(明治39年)12月10日、旧制・第一高等学校の弁論部大会にて最初の講演を行なう。『勝の哀(かちのかなしみ)』の演題で、ナポレオンや児玉将軍を例に引き、勝者の胸に去来する悲哀を説き、一時の栄を求めず永遠の生命を求める事こそ一日の猶予もできない厳粛な問題であると説いた。この演説に感動した一高生の何人かは荷物をまとめて一高を去ったという。 1907年(明治40年)、北多摩郡千歳村字粕谷(現・東京都世田谷区粕谷)に転居、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。1910年(明治43年)の大逆事件の際、幸徳秋水らの死刑を阻止するため、蘇峰を通じて首相の桂太郎へ嘆願しようとするが間に合わず処刑されてしまう。直後に再び一高の弁論部大会での講演を依頼されると1911年(明治44年)2月1日、『謀叛論』の題で論じ、学生に深い感銘を与えた。この講演を依頼した学生が、ともに戦後に社会党委員長となる河上丈太郎や文部大臣となる森戸辰男だった。 1927年(昭和2年)、病に倒れる。伊香保温泉で蘇峰と再会して和解、「後のことは頼む」と遺言して死去したという。58歳だった。 蘆花の死後、旧邸宅は夫人より東京市に寄贈され、現在は蘆花恒春園(面積約7万平方メートル)として開放されている。夫妻の墓のほか、徳冨蘆花旧宅も保存されている。蘆花の名前は、公園から徒歩5分の位置にある世田谷区立芦花小学校・芦花中学校、徒歩15分の位置にある京王電鉄京王線芦花公園駅にも残っている。