猪苗代湖は35年位前に大学時代の友人の大きなヨットで花春カップレース3回参加した思い出があります。そして会津の鶴ケ城やその城下町は何度も家内と行った楽しい曾遊の地です。
戦国時代に会津城主になったのは秀吉の家臣の蒲生氏郷でした。氏郷は茶人でした。
それで会津城の天守閣の下に千利休の子、少庵が建てたと言われる茶室、 麟閣があるのです。福島県指定重要文化財になっています。
以前にその茶室で家内と抹茶を楽しみました。
そして飯盛山の麓には御薬園があり、そこにも風雅な茶室があるのです。そこでも優雅な年配のご婦人の点前で抹茶を楽しみました。
会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃した悲しい歴史があります。
大政奉還が行われた際、当時会津藩を治めていた会津松平家の第14代当主、松平保久が維新軍へ対して激しく抵抗したために起きた悲劇です。
猪苗代湖、鶴ケ城、茶室麟閣、御薬園、白虎隊の墓の写真を示しますのでお楽しみ下さい。
1番目の写真は猪苗代湖の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.html です。
2番目の写真は会津城の天守閣の写真です。写真の出典は、http://tsurukan.com/diary/2011/04/post-166.html です。
3番目の写真は茶室、麟閣の写真です。出典は、https://kojodan.jp/castle/23/photo/9639.html です。
4番目の写真は御薬園の写真です。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d1383988-i227481625-Oyakuen-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。
5番目の写真は白虎隊17士の墓の写真です。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d5970066-i261998837-Byakkotai_s_Tomb-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。
それにしても会津若松市の傍には磐梯山もありますし、美しい保原湖もあります。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================
会津城の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%9F%8E
中世の館、城郭
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生 氏郷(がもう うじさと)で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。
戦国時代に会津城主になったのは秀吉の家臣の蒲生氏郷でした。氏郷は茶人でした。
それで会津城の天守閣の下に千利休の子、少庵が建てたと言われる茶室、 麟閣があるのです。福島県指定重要文化財になっています。
以前にその茶室で家内と抹茶を楽しみました。
そして飯盛山の麓には御薬園があり、そこにも風雅な茶室があるのです。そこでも優雅な年配のご婦人の点前で抹茶を楽しみました。
会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃した悲しい歴史があります。
大政奉還が行われた際、当時会津藩を治めていた会津松平家の第14代当主、松平保久が維新軍へ対して激しく抵抗したために起きた悲劇です。
猪苗代湖、鶴ケ城、茶室麟閣、御薬園、白虎隊の墓の写真を示しますのでお楽しみ下さい。
1番目の写真は猪苗代湖の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.html です。
2番目の写真は会津城の天守閣の写真です。写真の出典は、http://tsurukan.com/diary/2011/04/post-166.html です。
3番目の写真は茶室、麟閣の写真です。出典は、https://kojodan.jp/castle/23/photo/9639.html です。
4番目の写真は御薬園の写真です。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d1383988-i227481625-Oyakuen-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。
5番目の写真は白虎隊17士の墓の写真です。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d5970066-i261998837-Byakkotai_s_Tomb-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。
それにしても会津若松市の傍には磐梯山もありますし、美しい保原湖もあります。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================
会津城の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%9F%8E
中世の館、城郭
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生 氏郷(がもう うじさと)で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。