2008年の11月30日、12月1日と日光の奥の湯西川温泉へ一泊の旅へ行きましした。
平家の落人の里というものは全国の山奥にありますが、湯西川は本当の落人の地だったと納得出来ます。
写真を撮って来ましたのでご報告します。上の写真はは男体山(左端)などの日光連山です。
平家の落人のあった湯西川温泉は上の写真の山々の裏側にありました。
平家の落人というものは記録が残っていて信用できるところは多くはありません。
栃木県日光市湯西川温泉は文献にも明記されている本物の平家の落人です。「平家の里」という落人の里を復元したテーマパークがあります。写真がその様子です。
訪れてみると、付近は水田も作れず畑作もままならない谷間の寒々しい土地です。
復元、展示されている家々は少し立派すぎるようですが、それも一興と思い写真でご紹介します。
平家一門に関する数々の品や木工の道具類が展示されています。壇ノ浦近くの赤間神社から、テーマパーク建設の時、分祀した小さな神社もあります。そのおりに贈られた長門本20巻の復刻版も展示してあります。
壇ノ浦の戦いのあと、平家の武将、平貞能(さだよし)は平重盛の妹の妙雲禅尼を助け、宇都宮まで逃げて来ました。
宇都宮の領主の藤原朝網に保護されようと思ったのです。しかし朝網は困ります。
そこで付近の最高峰の高原山へ一行を隠します。
ところが一行のなかのある女が男の子を安産します。御祝に鯉幟をあげます。それを山裾を落人探索中の源氏方に見つかり攻められまました。
そこで落人の一団は二手に分かれ貞能(さだよし)は塩原へ逃げ、さらに遠く、仙台の西の作並温泉近くまで落ちて行きます。一方、他の落人は塩原のさらに西の険しい山々に分け入り、現在の湯西川温泉の地に隠れました。そこまでは記録も残っているのです。
仙台の作並温泉近くまで行った貞能は出家して定義(じょうぎ)と名乗ります。この定義は「さだよし(貞能)」とも読めます。
作並から山に入りこんだ所に現在も定義温泉があります。定義和尚はそこで天寿をまっとうしました。住んでいた堂を後の人々が定義不動堂として現在に到っています。
もっと詳細は「湯西川温泉」と「定義」をキーワードにして検索するとご覧頂けます。
撮影日時:2008年12月1日午前10時頃、撮影場所:湯西川温泉1042、「平家の里」(電話:0288-98-0126)、撮影者:Mrs.後藤
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それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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参考情報:下はこの旅で出会った料理です。
上の写真が湯西川温泉の伴久ホテルの夕食でした。
囲炉裏でヤマメや田楽を焼いていました。竹ベラに塗りつけた鳥味噌も焼いています。火の横にはイノシシの落人鍋の汁が湯気を上げていました。
御膳の上には山の幸をいろいろ盛り合わせた皿があります。そして、サクラマスの刺身。それらを肴に熱燗をゆっくり嗜めるのです。
下の写真は日光の東照宮の西参道入り口にある「磐梯」の湯波料理の昼食のl写真です。
いろいろに料理した湯波が美味でした。新しいもち米の栗おこわが湯波の味を引き立てていました。撮影日時:11月30日の夕食時と昼食時。
なお、伴久ホテルと磐梯の湯波料理は検索すると詳しい情報が公開してあります。