昭和時代は日中戦争や太平洋戦争があって戦死者が続き、悲惨な時代でした。その一方家庭内の日常をみると、長男だけを優遇するという封建時代の考えが強く残っていました。同じ兄弟姉妹として生まれながら、長男だけが大切に育てられ他のものは家を出て苦難の人生を歩むのが当然でした。そこには兄弟姉妹のあいだの差別がありました。食事の時にも父と長男だけが良いものを食べる家庭すらあったのです。現在から思い返すとそれは想像も出来ないほど厳重な家庭内差別でした。その悪習が次第に消えて行ったのは1970年頃から始まった経済の高度成長の頃からです。充分な高等教育も受けずに農家を出てしまった次男三男が就職した会社が隆盛し、給料も倍増したのです。家に残った長男よりも良い生活が出来るようになったのです。その次男三男が都会で家庭を持ち、子供が出来れば、長男優遇はしませんでした。悔しかった自分の経験から子供は皆平等に育てたのです。現在は長男だけを優遇した昭和時代の家庭の悲劇も忘れられています。しかし、父母や祖父祖母の生きていた時代の記録を残し、もう二度とこのような不幸なことが起きないようにしたいと思います。そこで昨日、コメント欄に投稿されたyuyuさんの体験記を改めてこの欄でご紹介いたします。
=========yuyuさんの体験記==========
人の運命というものがあるとすれば、貧しい家に生まれるのもその人の運命なのでしょうか。ところがその逆もあるのです。私の父は豪農の三男に生まれ、学校では常にトップだったのですが、頭の悪い長男だけに教育を受けさせたのです。
三男の父は、昔の商業学校へ。その上、父は道楽者の叔父の養子として家を出されたのでした。
父の成績を知ったのは,父の恩師の家に父に連れられていった時の事でした。父は金持ちの家に生まれたのに、上の学校へ行かせてもらえなかったのです。
成績の下の同級生が大学の教授で博士になっているのを何時も、悔しがっていたのを思い出します。
養父の叔父は事業に失敗して、北海道へ逃げ、父を魚屋の丁稚に行かせたのでした。そこで腕を磨いたところで、故郷へ帰り,開店。父の腕の良さは次第に有名になり、大手の客は彼のお作りを遠くから注文してくるようになり、番頭も3人にもなりました。
政治力ある叔父は魚業界の組合長になりました。
父がその後結婚し、兄と私の男ふたり子供を生みました。その父の幸福の最中、赤紙が来たのです。支那事変の時です。衛生兵だった父は負傷者を手当中に,中国の敗残兵の狙撃を受けて右大腿部貫通銃走の負傷で、帰還です。店は番頭たちが何人もいて盛大でしたが、大東亜戦争で次々に番頭が徴兵され、足の悪い父は家業を続けられなくなりました。
その上、日本は負け戦でした。そこへ空襲で、父の里へ疎開。畑違いの衣料の商いに仕事買えです。古物しかもののない時代ですから、古物商が正式名称でした。
それでも、近郷では知らない人のいないほどの名家ですから、父の商いは繁盛しました。ちょうなんの兄が大学へ。その長男の学費をのために,残っていた在村地主としての田んぼを売り払いました。
本家の伯父や女房である母までも父を甲斐性がないと口にすることが多くなりました。兄弟も4人になっていましたが、他の三人は父を母の味方につきました。私一人が不運な父を気の毒におもいました。恩師と会って父の生い立ちを知ったからでもありました。
受験を前にしていた私は勉強より父の手伝いをしました。父が大好きだったのです。働くことは誰にも負けない人でした。そんな父の生き甲斐は子供の成長。何処へ行ってもほめられる我が家の4兄弟でした。全部学校で一番の成績でしたから、知れ渡る兄弟でした。
ある時、母を熱海の温泉に連れてゆくと東京経由でヤミ米を背負って出かけました。大宮で取締にあって,それらは全部没収です。
運の悪いのは父だけではなく母もまた不運の人と私は思うようになりました。しかし,そんな父が兄弟の中で私だけが大好きでした。
金儲けは下手でも、人の世話をすることは親戚中で尊敬されていました。筆を持たせれば高等科しか出ていない人には思えない達筆です。町や村の行事には欠かせない人でもありました。当時、盆踊り流行の時に,不良たちがまちへ押しかけで,困っていました。駐在さんと私服で、不良が因縁つけるのを待って、逮捕する。そんな手伝いもする父でした。「伊達に球の下をくぐったんではない」のセリフは与太者たちまで恐れさせる元気な父でした。運に見放された人と言われても仕方のない父でした。(終り)
======悲しい体験記ですが父への暖かい愛情が!=======
上の手記には農家の三男として生まれた父の過酷な人生が克明に描かれています。昭和という時代の農村の家庭生活の記録として後世に残したい文章です。しかしyuyuさんの父へ対する暖かい愛情が書き込んであり読後感にほのぼのとしたものがあります。手記を寄せてくれたyuyuさんへ感謝してこの記事の終りと致します。
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人
気になる記事ですので、コメントさせて頂きました。
yuyuさんの御父様のご苦労が伝わってまいります。
気になりますのは、長男と他との対比で捉えられ、又、強調されてるように感じました。
この時代は多くの(殆どの)人達が苦しんでいた時代であると、私は解釈しています。
もう一点は、長男の優遇は旧民法の家父長制に由来するものだと考えますが、確かにこの制度は問題点が多々あったようにも思われますが、
認識しなくてはならない事の一つは、権限もあったけれども、義務もあったのです。
それは、父母や祖父母の亡くなるまでの介護です。今では明らかになっておりますが、大変な思いで介護をやっていたものと想像されます。
(但し、その負担が家父長の配偶者に圧し掛かっていたのも事実だと思います。) 問題はあるとしましても、権利だけを振りかざしていた訳では無いことは、藤山様もご存知ではないかと拝察致します。
ご返事頂ければ、幸いに存じます。
ご無沙汰してしまいました。コメントを頂きまして大変嬉しく思います。
私も長男の義務はよく知っています。それ故に職業選択の自由も無く、家名の犠牲になった場合もありました。
長男が家督相続する習慣は日本では800年以上続いたのでしょうか?
アメリカ流の自由主義の汚染に染まっている私にとって日本の家族制度へ反発を感じています。
しかし孤独死する人々の多いのも家族制度の崩壊によるものですね。
難しい問題ですね。またこのテーマは取り上げます。正論かもさんと共に一緒に考えて行きましょう。
敬具、藤山杜人
私は女性ですが、昭和生まれです。
私の祖父が山岳地帯の出身で、農家の長男でした。
複雑な家庭で、跡取りにはなれず、地方都市に住み着き、低学歴で結婚したのです。その息子、つまり私の父はいい大学を出てUターンし、地元の大企業に入ります。
ところが悲劇が。
祖父はDV男で、私の母や私に暴力を振るう。
しかも、東京に出た次男以下にこっそり祖父母が父の給料から仕送り。なんででしょうかね。父は同居した上に毎月金を搾り取られて、優遇なんて受けていません。給料が低いと罵られていたそうです。そして零細企業勤務の次男以下に隠れて大金を送った。
父の悪口まで電話を次男以下にかけたりしてたのも知ってる。
私は孫でも次女でいつも跡取りじゃないと虐められていました。農家脳の祖父があからさまに姉を贔屓。
それから数十年たち、姉は若い時に、跡取りなんて前近代的な言葉に嫌気をさして家を出ていますね。私も出たけど実家にはよく行ってて、母を看取らねばと思いますよ。
私は跡取りじゃないと言われて虐められてたので
すみません、実家も墓もいらね。
父の兄弟は、実は次男以下が優遇されていたという、怖いけど本当の話です。そして跡取り孫娘だと贔屓されてた姉は、出たもん勝ちだと言ってたですねー。