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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私の一生は邯鄲の夢(2)仙台の大空襲と昔の故郷の消滅

2012年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム

「邯鄲の夢」が教えているように、人生は短い夢のようで、はかないものです。

夢ですから楽しい夢も、悲しい夢もあります。驚きの夢も、悪夢もあります。

1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。

9歳であった僕は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。翌日は少年の単純な好奇心で、鹿落坂をくだって焼け跡を見に行きました。下の写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇っていたのを鮮明に思い出します。

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7月10日の夜に下の写真のようなアメリカ空軍のB29が123機、来襲して仙台市を一挙に焼きつくしたのです。123機編隊でやって来たのです。小笠原のすぐ南の硫黄島の空軍基地からです。

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それは一瞬の悪夢でした。そうして間もなく敗戦です。多数のアメリカ兵がやって来ました。

戦争中に第二師団があった川内の広大な敷地に白い宿舎や事務所を建てて占領政策を実施していました。日本軍の使っていた松島飛行場や仙台霞の目飛行場は米軍基地になり、米兵が市内を闊歩していました。その上、市内の金持ちの住宅は接収されアメリカ軍の上級将校の自宅になったのです。仙台市の復興は遅々として進まず、砂埃の大通りを米軍のジープが走り回っていたものです。

あれから茫々65年。現在の仙台市を青葉城から見降ろすと下の写真のように復興したのです。

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仙台市の大空襲は悪夢です。そして立派に復興した姿も夢のようです。

この仙台を出て東京に暮らすようになって五十年以上になります。

時々、仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回ります。ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しているだけです。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。もうみんな旅立ったのでしょうか?

繁華街の一番町の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらないのは藤崎デパートと三越デパート、そして お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンなどです。他は全て消えてしまったのです。私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。甘い追憶の中のふるさと、仙台はついに消えて失くなってしまったのです。

昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か心が暗くなります。牛タン焼は美味しいものです。それは知っています。しかし仙台では絶対に食べないようにしています。まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに腹を立てているのです。

仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消失してしまったのです。

しかし。しかし街々を囲む山々の自然は変わりません。人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。でも自然の景観は何時までも同じです。それを見るとやっぱりふるさとは良い。仙台は良い所だと思います。

下に評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の写真を示します白い建物の後の小高い森が青葉城の本丸のあった所です。

真正面のテレビアンテナの鉄塔のある一体が八木山というところです。川の左手は経が峯といい、伊達正宗の廟所があります。ああ、それにしても全ては短くて儚い夢でした。「邯鄲の夢」でした。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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