後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

汪兆銘南京政府と玄奘三蔵法師の遺骨・・・戦争と宗教遺産の関係

2013年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次世界大戦は2000万人のロシア人がドイツ兵に殺され、400万人のドイツ人も死にました。

アジアでは1000万人の中国人が日本兵に殺され、300万人の日本人も死にました。人類の歴史に未曾有の大戦争だったのです。

ドイツが占領したフランスにはヴィシー政府が出来、ドイツに協力します。

同じように中国の南京には1940年に汪兆銘南京政府が成立し1945年まで日本へ協力しました。

下の写真は南京政府主席の汪兆銘が自分の軍隊を閲兵している場面です。

Wang_jingwei_regime_3rd_anniversary

この様な社会の大激動の中で、汪兆銘南京政府が玄奘三蔵法師の遺骨の一部の頂骨を日本へ寄贈したのです。

その遺骨は日本の軍隊が発見し、汪兆銘南京政府へ届け出たものでした。日本人が玄奘三蔵法師を尊敬していることを知っていた南京政府が日本側へ寄贈したのです。

この様に南京政府は日本側へ協力し、日本軍の武力を背景にして重慶の蒋介石政権に対抗したのです。

戦争になれば文化遺産でも宗教遺産でも、なんでも利用出来るものは利用するのです。

さてこの玄奘三蔵法師の遺骨が本物であるかという大問題があります。

以下にその真贋の検討をしたいと思います。

この遺骨は第二次大戦中に日本軍が南京を占領したとき発見したものです。遺骨の届け出を受けた南京政府が日本へ寄贈したものです。

この前後のいきさつを軽く見過ごしてしまうと真贋の検討は間違うと思います。

いろいろ考えてみると、これが三蔵法師の遺骨であるという科学的根拠が無いのです。全然無いのです。

ですから偽物と思うほうが無難だという結論に到達します。

勿論本物である可能性はゼロではないかも知れません。

しかしその可能性が非常に小さいのに本物だと主張する態度は科学的に間違っているのです。

しかし一方この遺骨の一部を宗教的記念物として大切にするのは個人の自由です。

そこで信仰の立場からもう少し詳しく記述してみます。

三蔵法師の遺骨の一部である頂骨が昭和17年に偶然に南京で発見されました。お骨の入っていた石棺に、「宋時代の天聖5年(1027年)に、演化大師が西安から南京へ持って来た」と刻んであったのです。

この刻文が正しくても遺骨が三蔵法師のものだという科学的根拠にはなりません。他人の遺骨かも分からないからです。

この頂骨の一部が昭和19年に南京政府から日本へ寄贈されたのです。そして日本の仏教界の為に海を渡って来ました。

その遺骨は現在、埼玉県の岩槻の慈恩寺が守っています。

私は2009年9月14日にお参りして来ました。慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が、慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しました。

見順住職はこの遺骨は慈恩寺だけの所有物ではなく、日本の全仏教徒の為のものとして公開することにしたのです。

そこで見順住職は日本仏教連合会と相談をしながら、お寺とは独立した場所に13重の塔を建て玄奘三蔵法師のお墓にしたのです。更にその後、遺骨は日本仏教連合会の決定にしたがって、台湾の玄奘寺と奈良の薬師寺へ分骨されました。

慈恩寺へ行けば第51世住職の大嶋見順師にお会い出来ると楽しみにして参上しましたが、残念にも2年前に亡くなっていました。奥様と第52世住職の方としばしお話をした後に玄奘三蔵法師のお墓へお参りに行きました。家内と一緒に行きました。

13重の玄奘塔は広々した田畑の中にありました。参道には店も無く、人気の無い淋しい野原が夏の名残の日差しの中に輝いているだけでした。

下の写真が玄奘塔の入口の門です。中国の西安から、遠方の埼玉県まではるばる来てくれた三蔵法師の温かい慈悲の心が感じられるようです。

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下の写真は13重の塔で東武鉄道の根津社長が昭和22年に寄進した見事な石塔です。この塔の基部に高さ8cm、直径7cmの水晶の壺に入れた玄奘三蔵法師の遺骨が埋めてあるそうです。

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下の写真は長安にある玄奘三蔵法師のインドへの旅姿の絵画を忠実に模した大きなブロンズ像です。

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下の写真は玄奘塔のある周囲の風景です。

場所は、http://www.jionji.com/に御座います。

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広い敷地には参詣人は誰も居ませんでした。

玄奘三蔵法師の遺骨と南京政府の関係を思うと、どうしても日本軍の中国大陸への侵略のことを連想します。

残念でなりません。平和な時に玄奘三蔵法師の遺骨が日本へ来ていればもっと参詣人も増えたと思います。

複雑な思いで埼玉県の岩槻の慈恩寺を後にしました。

残暑の厳しい4年前の9月14日の午後でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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