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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「遥かな五島列島にある50もの天主堂」

2025年07月21日 | 写真
 五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、やっと数年前に2泊3日の旅で訪れることが出来ました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。
訪れた5つの教会の家内が撮った写真をお送り致します。
1番目の写真は井持浦天主堂です。
 
 
2番目の写真は堂崎天主堂です。
3番目の写真は堂崎天主堂の祭壇です。
4番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。
5番目の写真は青砂ケ浦天主堂の祭壇です。
6番目の写真は頭ケ島天主堂です。
7番目の写真真は中ノ浦天主堂です。
 
五島列島ではたった7万人の住民にた対して50もの教会が存在するのです。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「五島列島はカトリック教徒の巡礼地です」

2025年07月21日 | 旅行記
日本のカトリック信者にとって五島列島は巡礼地と私は思っています。
日本の全てのカトリック教会はローマ法王へ直属していますので「日本本山」というものはありません。
しかし私は長崎の大浦天主堂が「日本本山」だと思っています。フランシスコ教皇も長崎へ巡礼の旅をなさいました。
明治時代になって禁教が解けた以後に隠れキリシタン達が五島列島に美しい教会をたくさん作ったのです。
数年前、私は家内とともにこれらの美しい教会を巡る旅に行ったのです。それは隠れキリシタン達を偲ぶ巡礼の旅でした。
その美しい五島列島の風景写真をお送りしようと思います。
写真家の峰脇 英樹さんが撮った風景写真です。
彼は生れ故郷の五島列島の発展のために、「五島列島支援プロジェクト 」に献身的に貢献しています。
風景写真は彼の「 五島アルバム 」から5枚お借りしてここにお送りいたします。
なお https://gotoproject.jp/photographer/photo-minewaki/ にはもっと多数の写真が紹介してあります。他の写真もお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。
ついでに五島列島支援プロジェクトについて簡単にご紹介しておきます。
五島列島支援プロジェクトでは五島列島の地域振興活動を行っております。農水産物の首都圏流通、文化的景観保全の観点からカトリック教会の保全などを中心に活動をしてます。
詳細は以下に掲載されています。
https://gotoproject.jp/about-goto-project/ と https://www.facebook.com/gotoproject/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「世界でも類を見ない日本のキリスト教の歴史」

2025年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日本におけるキリスト教はフランシスコ・ザビエルによって1549年に伝えられ、西日本を中心に急速に広がりました。最初のキリシタン大名、大村純忠によりイエズス会に寄進された長崎は、日本におけるキリスト教布教の中心となりました。多くの教会や関連施設が建てられ、南蛮貿易の中心地としてキリシタン文化が花開きました。その繁栄ぶりは、当時の記録に「日本における小ローマ」として記されています。
またキリシタン大名、有馬晴信が所領していた島原半島南部には日野江城下にセミナリヨがおかれ、大名の子弟らが西洋文化を学びました。ここで学んだ天正遣欧使節の4人の少年たちは海を渡り、ローマ教皇に謁見を果たし、ヨーロッパ世界に日本を知らしめました。
全国統一を目指す豊臣秀吉は、「伴天連(ばてれん)追放令」を発して長崎を直接支配し、1597年には宣教師やキリシタン26人を処刑しました(26聖人殉教事件)。これに続く徳川幕府も1614年に禁教令を発し、キリスト教弾圧が本格化します。そのため当時長崎にあった教会もすべて破壊されてしまいました。
その後、1637年の島原の乱をきっかけに、鎖国が完成します。こうした状況のなか、ローマ教皇庁では日本のキリスト教は完全に根絶したと考えられていました。
しかし、厳しい弾圧にもかかわらず、教会もなく神父もいないなかで、信徒たちは地下組織をつくり、潜伏してキリスト教の信仰を守り続けていました。また、信徒たちの中には信仰の継続のため、海を渡り五島列島に移住する者もいました。
ペリーの来航による開国を機に、パリ外国宣教会の神父たちが来日します。長崎でも、外国人神父により居留地に大浦天主堂が建設され、1865年献堂式が行われました。その数日後、浦上の信徒十数名が現れ、プチジャン神父に信仰を告白します。
これが世界宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。この「信徒発見」の知らせは、世界中を駆け巡り、大きな衝撃と感動を与えました。禁教から250年もの間、信徒たちは自らで洗礼やオラショを伝承していたのです。その後、長崎港外の島々や外海、五島、平戸、天草に潜伏していた信徒たちも次々と神父の指導の下に入っていきました。
しかし、明治政府は幕府の禁教政策を引き継ぎ、「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」など弾圧事件が起こります。信仰の自由が認められたのは、1873年、キリシタン禁制の高札が撤去された後のことでした。
1873年、禁教の高札が撤去されると県内各地に教会が建てられました。こうした歴史を経て建てられた教会は、九州の北西部に濃密な分布を示し、特に長崎県内には現在でも130以上の教会が点在しています。
それらの教会の多くは潜伏して信仰を継承してきた地区などに、外国人神父の指導のもと、日本人大工と信徒が自らの財力と労力を捧げて造ったものです。信仰を守り続けてきた信徒の強い想いが込められた、まさに「信仰の証」です 。
そして明治維新以後はいろいろなプロテスタン宗派やロシア正教やイギリスの聖公会などが日本へ導入され現在のキリスト教徒が300万人に増加したのです。
以下の写真と教会の説明文は、「長崎の教会」http://www1.odn.ne.jp/tomas/ から転載致しました。
1番目の写真は下五島地区の井持浦教会です。
明治28年(1895)全五島の司牧宣教を委ねられたフランス人宣教師アルベルド・ペルー師の指導によって建立された聖堂で、島内における木造からレンガ造りへの移行のハシリとなった。設立当初は両外側にアーケードを持つ、初のロマネスク風聖堂として名を馳せたが、大正13年(1924)室内拡張のためアーケードを堂内に取り組んだ。教会境内にあるルルドは、フランスのルルドを模倣して五島全域の信徒が島内の奇岩・珍岩を持ち寄り、明治32年(1899)に建設されたルルドで、聖母像は本場ルルドの聖母像を求めて洞窟に収め、さらに本場の奇跡の泉から霊水を取り寄せ洞窟横の泉水に注ぎいれた。
日本最初のルルドで日本全国からの巡礼者は後を絶たないそうです。
2番目の写真は下五島地区の浜脇教会です。
明治14年(1881)に建立された最初の天主堂は潮風に晒されて痛みが激しく、昭和6年(1931)五島では最初の鉄筋コンクートの教会として建立された。
 解体された旧聖堂は五輪地区に移されて、巡回教会として使用されていたが、現在は県指定有形文化財として保存されている。
3番目の写真は上五島地区の頭ケ島教会です。
頭ヶ島は幕末まで無人島であったが、鯛ノ浦キリシタンが、安政6年(1869)迫害を逃れて住み着いた。明治3年ドミンゴ松次郎が、長崎にてプチジャン師の教えを受けて島に帰り、住家を青年伝導士養成所とし、仮聖堂を置いたのが始まり。明治20年(1887)最初の教会を建設したが、明治43年(1910)司祭館の建設で自信を得た大崎八重師は、長崎から招いた石工(佐藤某)や大工鉄川与助等の指導を得て、松次郎の屋敷跡に、島で産出する石材による総石造りの聖堂の建設に着手、7年余の歳をかけて大正6年(1917)、ロマネスク様式の石造り天主堂が完成、大正8年(1919)5月14日コンバス司教によって祝別された。
4番目の写真は平戸ザビエル記念教会です。
以前上神崎教会の巡回地であったが、昭和6年(1931)4月新聖堂の落成・献堂とともに早坂久之助司教によって設立された。
現在平戸は商工、行政、教育、交通などあらゆる面において県北の中心である関係上、当教会は平戸、松浦、北松浦地区の主管教会である。
5番目の写真は大曽教会です。 大曽は巡回地の跡次と共に地区住民の100%がカトリック信徒で、昔ながらの信仰を中心とした生活のリズムが保たれている。
 一方、町の中心地にある青方巡回教会区域は、上五島各地から転入した信徒によって構成され、比較的若年層の信徒によって新しい感覚の教会づくりがなされ、対照をなしている。
 眼下に見下ろす青方湾の入口内にある折島は、キリシタンの島で、昭和5年(1930)から巡回教会が置かれていたが、日本石油公団によって全島が買収され、上五島石油備蓄基地が建設されたため、住民は青方へ移住し、昭和38年(1963)改築された教会は閉鎖された小値賀町を撤退したマリアの宣教者フランシスコ修道会が、昭和47年(1972)から町立の保育所の運営と小教区の奉仕に当たっていたが昭和63年(1988)撤収した。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違い」

2025年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は宗教に関する軽い記事を書くことにしています。欧米のキリスト教と日本のキリスト教はどのように違うかということを考えてみます。
同じ花でも植えた場所によって違ってしまいます。
日本の楚々とした花でも西洋に移植すると派手な色の洋花になります。
育つ場所の土壌と気候によって、花々は同じ種類のものでも変わるのです。樹木の場合は材質も変わります。それは自然なことです。自然現象として当然です。
明治維新以来、日本は西洋文化を輸入して来ました。しかし日本の文化的土壌はヨーロッパと違います。輸入した文化が日本に入ってくると大きく変化するのが当然です。
宗教も例外ではありません。
佛教の場合もミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムに伝わった仏教は出家を重視した戒律の厳しい上座仏教になり、中国、朝鮮、日本に伝わったものは在家でも成仏出来る柔軟な大乗仏教になりました。
同じようにキリスト教も日本に移植されると変化します。
日本古来の文化的土壌にあう部分は力強く育ち、合わない部分は衰えます。
人間の営みも自然現象の一部と考えれば当然です。

1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父は順応主義でした。
それでは日本のキリスト教はどのように変化したのでしょうか?
いろいろな変化がありますが、とりあえず次の2つだけを取り上げてみたいと思います。
(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。
欧米のキリスト教では先祖崇拝がありません。故人の記念として墓はありますが「先祖代々の墓」は存在しません。先祖が子孫を守るとは信じていないのです。人を愛し、守ってくれるのは神様なのです。イエス様なのです。先祖にはそんのような力はありません。
上の二つの相違は私が1971年に洗礼を受けて以来、カトリックのミサへ出席し、説教を聞いた経験から得た体験的結論です。
長い間カトリックの神父様達の説教を聞きましたが先祖崇拝を否定したり、仏教を攻撃した説教は一度も聞いたためしが無いのです。
日本の数多くのキリスト教徒は「先祖代々の墓」を大切にしています。
キリスト教だけが良くて仏教は悪いとは思っていません。多くのキリスト教徒は仏教も良いと思っているのです。

さて、それでは日本の仏教的文化土壌とはどのようなものでしょうか?
多くの無宗教の日本人でも幼い頃から「孫悟空」の絵本を読み、そしてテレビのアニメを見て育ちます。そうして大人になって、その話は唐時代にインドに行って仏教の経典を持ち帰ってきた玄奘三蔵法師がモデルになっていることを知ります。
玄奘三蔵法師は粗末な衣服以外身につけないで言葉も不自由な異国を旅したのです。危害を加えられたことも無く、各地の王に大歓迎されたのです。
それは玄奘三蔵法師の人格が抜群に良かったからです。その上、玄奘三蔵法師の仏教に対する篤い信仰心が異国の人々へ感動を与えたからです。その玄奘三蔵法師の像は各地にあります。

日本の仏教文化的な土壌を説明するための実例は枚挙にいとまがありません。
その中からもう一つだけ書かせて下さい。
日本人は無宗教でも京都や奈良のお寺へ観光に行きます。修学旅行でも行きます。そして知らず知らずのうちに仏教の歴史や教えになじむのです。

日本人なら諸行無常という言葉を知っています。動物を意味もなく殺してはいけないと知っています。南無阿弥陀仏という言葉を知っています。色即是空という言葉を知っています。人生は修行だという言い方も知っています。
みんな、みんなお釈迦様の教えたことです。

仏教を信じない、無宗教の日本人もこのお釈迦様の教えの海の中に暮らしているのです。
そして信じない人々も困った時には、上に書いたお釈迦様の教えをフッと思い出すのです。
これこそが日本の仏教的文化土壌の実態なのです。
この土壌にキリスト教が根着くためには、その排他性を捨てなければなりません。自然なことです。

よく日本のインテリはお釈迦さまは神の啓示を受けなかったから仏教は宗教でない。ですから排斥しないのだと説明します。これはトンデモナイ間違いです。
誤解を恐れずに書けば、日本のクリスチャンは仏教も好きなのです。好きなものを排斥する筈がありません。
以上は欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違いなのです。今日は下記の2つの違いだけを書きました。

(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。


今日の挿し絵代わりの写真は遥かな五島列島で訪問した青砂ケ浦天主堂です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は青砂ケ浦天主堂です。