後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「隣の韓国の年の瀬からお正月の風景写真です」

2023年12月31日 | 写真
隣だけあって流石に日本と似ています。中国とは違います。お正月は旧正月(ソルラル)を祝う韓国ですが、新暦の年末年始は日本と似ています。韓国の街も華やかさが増し一層にぎやかな雰囲気になります。そんな韓国の年の瀬からお正月の風景写真をお送りいたします。写真の出典は、
https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=877 です。

1番目の写真は韓国のソウルの年の瀬の風景写真です。

2番目の写真は歳末助け合い募金「社会鍋」です。12月に入ると、韓国全国の繁華街や地下鉄に響くベルの音。毎年12月1日からスタートする街頭募金「社会鍋」です。

3番目の写真はソウル都心のイルミネーションです。イルミネーションは、年末年始のお楽しみです。明洞をはじめ、東大門、江南、狎鴎亭などソウルの主要エリアでは百貨店や街路樹などが毎年色とりどりの電飾で彩られます。

4番目の写真は韓国の会社員たちの忘年会風景です。一次会は焼肉店や刺身店、二次会はカラオケ(ノレバン)という流れが定番ルートです。

「日本人を愛し、日本の土になった3人の外人さん」

2023年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
今年もあと1日で暮れます。皆様大掃除やお節料理の準備をしたりお忙しいと存じます。
そこで今日は簡単に読めて明るい気分でお正月を迎えられような内容の記事をお送りいたします。
日本人を愛した3人の外人さんは神父さんのことですが、普通の外人さんと同じような方々ですので親しみを込めてこう呼ぶのです。
三人の神父さまは九州の人々を深く愛したドロ神父と東京にニコライ堂を建てたニコライ司祭とサレジオ学園などを作ったチマッティ神父の3人のことです。
本当にこの3人は日本人を愛していたのでしょうか?
私は3人が亡くなったあと日本人がどのように評価しているかで判断出来ると思います。
この3人の葬送には長蛇の列が出来、日本の土になり、日本人が記念館を作って、現在でも墓参りの日本人が絶えないのです。以下に簡単過ぎるご紹介をお送りします。
(1)ド・ロ神父
現在、九州ではドロさまソーメンという素麺が製造、販売されています。ソーメンが好きな私がドロ神父を知ったのは、このソーメンのお陰でした。
ド・ロ神父は1840年、フランスの貴族の家に生まれ、39歳の時、九州の長崎県の外海(そとめ)に来ました。フランスの貴族の出身で九州の貧民を助けるためフランスの実家から財産を何度も持ち出しては貧民救済の工場や施療院を建てました。その一つがドロさまソーメンの工場だったのです。
ド・ロ神父は、高齢で病気がちになってからは大浦の司教館で静養していました。1914年、新しい司教館の建設に自分も作業をしていました。その時、建築現場から足を踏み外して落下したことがきっかけで病状が悪化し、司教館の完成を待たずに亡くなってしまったのです。享年74歳でした。
遺言により神父の遺体は、外海に自らが造成した「野道のみち共同墓地」に葬られることになりました。
神父の遺体が船で外海に運ばれて来る日、村人は総出で出迎えたのです。葬儀は出津教会堂で行われ、棺は出津を迂回しながら墓地へ運ばれました。参列する人の列が長すぎて棺が墓地に着いても行列はまだ教会まで続いていたと言います。外海赴任から35年間、1度もフランスに帰らず外海のためにすべてを捧げた人生でした。詳しくは、http://shitsu-kyujoin.com/publics/index/4/ をご覧下さい。
ドロ神父の墓は現在でも日本人がお参りに行き大切に守っています。
あう日本人の参拝記を示します。・・・現在の野道共同墓地に足を運ぶと、墓地の入口の広場にりっぱなド・ロ神父の墓碑があるが、実は神父の亡骸は、神父自身がフランスから取り寄せて墓地の中央に設置した大十字架の近くの墓に埋葬されている。この墓は今でもそのまま残されているが、1990年、多くの人がド・ロ神父の墓を訪れ命日にはミサなども行われるため、共同墓地の入口にド・ロ神父の墓碑を新たに建立したのである。これには、石段を登らずにお墓参りができるようにという高齢者への配慮もあるようだ。・・・
(http://oratio.jp/p_column/doroshinpu-haka より抜粋)
1番目の写真はド・ロ神父です。
2番目の写真はド・ロ神父記念館の前にある神父の銅像です。貧しい子供がまつわりついています。
3番目の写真は現在も販売されているドロ様そうめんの宣伝用パンフレットです。

(2)ニコライ司祭
ニコライは幕末にロシア正教を日本へ伝えるために函館に来ました。
彼は書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。明治天皇を敬っていました。日本を強く愛していたのです。そして日本の土になったのです。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。
 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。
今日はその中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」
ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。享年76歳でした。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。神田のニコライ堂から買って来た葬列の写真10枚ほどを見ながらこの文章を書いています。 
東京のお茶の水の駿河台にあるニコライ堂は、1891年、明治24年にニコライによって建てられました。
私は数年前に何度かニコライ堂を訪れ、ある日曜日には9時から12時までの3時間にわたる歌ミサにも出席したことがあります。
私はカトリックですが正教会の礼拝はカトリックに似ていて違和感を感じませんでした。
このニコライ堂は一般開放しています。毎日観光客が来ます。
4番目の写真はニコライ司祭の写真です。
5番目の写真は一般公開されている東京、お茶の水にあるニコライ堂です。

(3)日本のサレジオ会宣教の先駆者、チマッティ神父
チマッティ神父のことは2017年12月24日の記事として掲載してありますので詳細は省略致します。
サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来て宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
日本人を愛し、サレジオ会の日本人が第二次大戦で徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。
墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。そしてその墓は一般公開されているので現在でも日本人の参拝者が後を絶たないのです。
チマッティ神父は1879年にイタリアで生まれ、1965年に東京の調布市の土になりました。享年87歳でした。
戦争中は苦難の時期でした。
戦前や戦時中はキリスト教が外国の宗教として厳しく監視される中で、度々コンサートを開くことで音楽を通して教会に対する好感を培うように努めた。コンサートは奄美大島から札幌、占領下の満州、北朝鮮や韓国など各地で開催され約2,000回におよんだそうです。
1940年、教会の外国人責任者に対して日本政府から辞職命令が出され教区長を辞職します。そして宮崎を去って東京に移ったのです。
旅行を制限され、一時三河島教会の主任司祭となり、1943年末以降、空爆中でも練馬のサレジオ神学校で過ごしました。
そして自分の弟子達が徴兵され戦死するという深い、深い悲しみを経験したのです。
しかし戦後は、破壊された事業を復興させ、サレジオ会の新しい事業設立と発展に尽力したのです。
6番目の写真はチマッティ神父の遺骸の納められている石棺です。お墓です。
7番目の写真はチマッティ神父資料館です。
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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いても明るく新年を迎える方法」

2023年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると親や親類が次々と亡くなって行きます。そのうち自分より若い友人も何人か亡くなり衝撃を感じます。
気がついてみると周りには昔から自分を知っている人がみんな居なくなります。淋しいです。寂寥感に包まれます。老境には孤独感はつきものです。老境の宿命です。
しかしその孤独感や寂寥感を克服して明るく毎日を楽しむことも出来ます。
そこで今日は老境の孤独を克服し、明るく龍年のお正月を迎える3つの方法を書いてみようと思います。
(1)過去の懐かしい人々へ感謝する。
過去に自分を大切にしてくれた人々を一人一人、丁寧に思い出し感謝するのです。勿論、両親や妻や家族に感謝するのは当然です。
これを時々行うと不思議に孤独感や寂寥感が無くなるのです。
自分を好意的に考えて助けてくれた人々は学校時代にも職場にも沢山いました。しかし当時はあまり感謝しなかったかもしれません。ところが老境になると強い感謝の念が湧いてくるのです。その気持ちを大切にすると老境の孤独を克服し、明るくお正月を迎えることが出来るのです。
例えば中学校時代に一緒に遊んだ友達でその後音信が途絶えてしまった人もいます。皆様にもそのような友人がいることと思います。そんな昔の友人の顔を思い出し、彼等のその後の人生が安らかなことを祈るのです。私にもそのような音信が途絶えた懐かしい友人が何人もいます。彼等も明るくお正月を迎えるように祈ります。すると孤独感が無くなります。
(2)新しく知り合った全ての人を大切に思い優しい言葉をかける。
新しく知り合った人とは毎週通うリハビリ施設のスタッフやそこで会う高齢者です。病院で会う若い医師や看護師です。そしてスーパーやコンビニのスタッフ達です。日常、会う他人です。この他人を大切に思い優しい言葉でちょっとした会話をします。
そして知り合った高齢者とも軽い付き合いをします。
この欄で以前書きましたが、私は昔の陸軍士官学校の卒業生2人と知り合いました。ところが二人とも今年の夏に亡くなってしまいました。
そのうちの一人は陸軍航空隊の戦闘機に乗っていた勇士でした。
いろいろな話を聞いて明治維新以来、陸軍士官学校ではどのような教育がなされていたか概略の事は知ることが出来たのです。自分はまだ日本の社会に繋がっているような気分になります。
それはさておき、新しく知り合った全ての人と良い関係が出来ると過去に自分を大切にしてくれた人々が居なくなった悲しみが癒されるのです。そうすると不思議に孤独感や寂寥感が無くなるのです。
(3)宗教に関する本を少し読む。
日本には無宗教の人が多いと言います。しかし老境になってから宗教に関する本を少し読むと内容が理解出来るものです。
若い時読んで理解出来ず、宗教に反発心だけが残った人も少なくありません。
しかし高齢者になったら近所の神社やお寺に気軽に散歩して、ついでに手を合わせるのも悪いものではありません。神仏が貴方を守ってくれます。
無宗教の人に宗教を信じなさいと言うのは失礼です。信じる心は自然の成り行きなのです。他人がとやかく言うのは間違っています。
しかし宗教に関する本を少し読むチャンスはあった方が良いと思います。
例えば以前、この欄で『日本人を愛し、日本の土になった3人の外人さん』という記事を掲載しました。
三人の外人さんとは、九州の人々を深く愛したドロ神父と東京にニコライ堂を建てたニコライ司祭とサレジオ学園などを作ったチマッティ神父の3人のことです。
彼等は本当に日本人を愛し、それぞれの一生を捧げ、日本人が少しでも幸せになれるようにつくしたのです。
この私の記事を読んで、心を打たれたというコメントを幾つも貰いました。別に宗教を信じなくても読んで下さればそれだけで良いのです。
最後にこの外人の神父さん達が何故このような一生を過ごしたのでしょうか?それは神がこの3人を愛していたからです。この3人は強く神を愛していたからです。
私はカトリックなので時々神の愛を感じます。時々そんなものは無いとも思います。しかし神の愛を感じたときは孤独感も寂寥感も消えて無くなります。
この感じ方は仏教でも同じです。お釈迦さまの教えを信じ、お釈迦さまへ帰依していれば孤独感や寂寥感など自然に消えて行くものです。

以上の(1)、(2)、(3)を連携させると老境の孤独感や寂寥感を克服できます。明るい気持ちでお正月を迎えることが出来るのではないでしょうか?

それにしても今年も皆様に拙文をお読み頂き大変お世話になりました。有難う御座居ました。

今日の挿し絵代わりの写真はのパンジーのと冬に咲き出すロウバイの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)