縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていた約12000年間です。土器や石器は使っていましたが、農業は無く、村落の規模も小さく、文化程度の低い時代だったのです。日本人の縄文時代に関する平均的な考え方はこのようなものです。
しかし青森県にある三内丸山遺跡やその他の数多くの縄文遺跡の発掘研究の結果を知ると上記の考えは全く間違っていることが判ります。
三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅があり、食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。
それは弥生時代や古墳時代の地方の豪族の領地支配の歴史へと繋がる社会と文化だったのです。
三内丸山遺跡はこのような縄文中期の高度な文化を示す驚異的な遺跡であり、実に多彩な出土品も出ているのです。
そして他にも青森県の全域と北海道の南部には数多くの縄文遺跡が発見されています。
しかしこの青森県と北海道の南部の縄文文化はその後の縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。
縄文前期の日本全土の縄文人の総数は2万人で、中期には26万人まで増加します。しかし、後期の寒冷化によってまた数万人までに減少するのです。
人口が確実に増加に転ずるのは稲作が始まった弥生時代からです。青森県の三内丸山遺跡も縄文後期には衰退してしまうのです。
以下にこの写真や図面で上記の事実を説明いたします。

1番目の写真は青森県の三内丸山遺跡です。(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)
写真の左下に写っている巨大な木柱を組んだ建造物は祭祀用の祈祷檀のようです。
その後ろに続く大きな藁屋根の家は祭祀にも使ったでしょうが、この領地の権力者(王とも言える)の住居、すなはち宮殿と考えるのが自然ではないでしょうか。
この大きな家の左上にある3軒の高床式の建物は食材の貯蔵庫と言われています。
そしてこの3軒の貯蔵庫の後ろには比較的大きな竪穴式の住居が見えます。
権力者に仕える家臣の家でしょうか。その左遠方には小さな竪穴式の住居も見えます。
そして墓地はこれらの住居よりは離れて作られていました。
上の写真の遠方には白い青森市街と青い陸奥湾が見えます。

2番目の写真は男女の縄文人の服装を示しています。
柔らかい植物の繊維で織った肌着の上に鹿や猪のなめし皮で作った服を着ました。
勿論、季節によって服装は変わり、厳寒の冬には上の服装に更に毛皮の外套を着ていたと考えられます。

3番目の写真は縄文人がかなり使い込んだ「堀り棒」です。
山の土を掘って自然薯や食用にする根を採った道具です。あるいは住居の周囲に堅果類の木を植栽するときに植える穴を掘ったのかも知れません。
原始的な農業用の道具です。
4番目の写真は植物の繊維で編んだ袋です。木の実採集の時に使ったり、小物入れにして使ったと想像できます。このような繊維製品や漆器も出土していて文化の高さを示しています。

5番目の写真は墓地の発掘現場です。楕円形に並んだ石の中心に墓穴が掘られ、人骨が埋葬されていたものと推定されています。
その他の出土品は以下の文献にあります。http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/photo/index.html です。
さて縄文遺跡は青森県全域で以下の図面に示したよう多数発見されています。ご参考までに以下に示しておきます。
そして縄文時代後期の急速な寒冷化に関する厳密な学術調査の結果は、
それにしても縄文時代は想像していたよりも遥かに文化程度も高く、社会の統治組織も出来ていたのですね。(終わり)