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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「北海道の国宝の縄文時代の土偶」

2023年11月14日 | 写真
北海道には国宝の縄文時代の土偶があります。

写真は函館の東にある白尻町縄文土器展示館に展示してある国宝の縄文時代の土偶です。
白尻町は岩礁の迫った険しい地形の海岸に孤立した町でした。そこに立派な縄文土器の展示館があるのです。衝撃的な展示物は国宝に指定されている中が空洞になっている高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。

さて1万年前から2000年前にかけて北海道には広く縄文土器が存在していたのです。ですから縄文人はアイヌ人の祖先だったという結論になります。
北海道に居た縄文人の子孫のアイヌは本州のようにその後の渡来人と混じらないで純粋にその文化を伝承したのです。その北海道に住んでいた縄文人の子孫を我々はアイヌ人と呼んでいるのです。
本州に居た縄文人は大陸からの渡来人と混血し弥生人になりました。そして現在の日本人の先祖になったのです。

「驚異の三内丸山遺跡と縄文時代に繁栄した青森県と北海道南部」

2023年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていた約12000年間です。土器や石器は使っていましたが、農業は無く、村落の規模も小さく、文化程度の低い時代だったのです。日本人の縄文時代に関する平均的な考え方はこのようなものです。

しかし青森県にある三内丸山遺跡やその他の数多くの縄文遺跡の発掘研究の結果を知ると上記の考えは全く間違っていることが判ります。

三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅があり、食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。

しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。

それは弥生時代や古墳時代の地方の豪族の領地支配の歴史へと繋がる社会と文化だったのです。

三内丸山遺跡はこのような縄文中期の高度な文化を示す驚異的な遺跡であり、実に多彩な出土品も出ているのです。

そして他にも青森県の全域と北海道の南部には数多くの縄文遺跡が発見されています。

しかしこの青森県と北海道の南部の縄文文化はその後の縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。

縄文前期の日本全土の縄文人の総数は2万人で、中期には26万人まで増加します。しかし、後期の寒冷化によってまた数万人までに減少するのです。

人口が確実に増加に転ずるのは稲作が始まった弥生時代からです。青森県の三内丸山遺跡も縄文後期には衰退してしまうのです。

以下にこの写真や図面で上記の事実を説明いたします。

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1番目の写真は青森県の三内丸山遺跡です。(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)

写真の左下に写っている巨大な木柱を組んだ建造物は祭祀用の祈祷檀のようです。

その後ろに続く大きな藁屋根の家は祭祀にも使ったでしょうが、この領地の権力者(王とも言える)の住居、すなはち宮殿と考えるのが自然ではないでしょうか。

この大きな家の左上にある3軒の高床式の建物は食材の貯蔵庫と言われています。

そしてこの3軒の貯蔵庫の後ろには比較的大きな竪穴式の住居が見えます。

権力者に仕える家臣の家でしょうか。その左遠方には小さな竪穴式の住居も見えます。

そして墓地はこれらの住居よりは離れて作られていました。

上の写真の遠方には白い青森市街と青い陸奥湾が見えます。

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2番目の写真は男女の縄文人の服装を示しています。

柔らかい植物の繊維で織った肌着の上に鹿や猪のなめし皮で作った服を着ました。

勿論、季節によって服装は変わり、厳寒の冬には上の服装に更に毛皮の外套を着ていたと考えられます。

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3番目の写真は縄文人がかなり使い込んだ「堀り棒」です。

山の土を掘って自然薯や食用にする根を採った道具です。あるいは住居の周囲に堅果類の木を植栽するときに植える穴を掘ったのかも知れません。

原始的な農業用の道具です。

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4番目の写真は植物の繊維で編んだ袋です。木の実採集の時に使ったり、小物入れにして使ったと想像できます。このような繊維製品や漆器も出土していて文化の高さを示しています。

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5番目の写真は墓地の発掘現場です。楕円形に並んだ石の中心に墓穴が掘られ、人骨が埋葬されていたものと推定されています。

その他の出土品は以下の文献にあります。http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/photo/index.html です。

さて縄文遺跡は青森県全域で以下の図面に示したよう多数発見されています。ご参考までに以下に示しておきます。
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上の図面の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。
そして縄文時代後期の急速な寒冷化に関する厳密な学術調査の結果は、
http://scienceportal.jp/news/daily/1001/1001041.html に説明してあります。合わせてご覧ください。

それにしても縄文時代は想像していたよりも遥かに文化程度も高く、社会の統治組織も出来ていたのですね。(終わり)