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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「優しい美しさを描く小野竹喬、そして息子の悲劇」

2020年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本画と西洋画は非常に違います。そのどちらも芸術的な作品である以上、絵画として美しいうえに人間の考えや精神が深く描き込んであります。
日本画では人間と自然が調和しお互いに一体になりたいという精神が深く描き込んであります。西洋のように自然の風景を客観的に描くのではなく両者が調和し溶けあっています。自然に対する考え方の違いです。ですから小野竹喬の日本画もそのように描かれています。
竹喬の画の特徴を一口に言うと柔らかさでしょう。なだらかな線、穏やかな色、それらが見る人の心にそっと浸みこみ、知らず知らずのうちに平安な世界にいざなってくれます。人間の優しさを風景を柔らかく美しく描いて表わしているのです。絵は人間性を表わすとよく言いますが、小野竹喬は優しくてしなやかな人格者だったに違いありません。そして絵を描く技ももちろん天才だったのです。

1番目の写真は「西の空」です。素描で1967年作です。
空は少し暮れかかって茜色になり始めました。もう少し時間が経てば本当に鮮やかな茜色になると考えられます。なにかほのぼのとした幸せな気分になります。

2番目の写真は『夏の五箇山』です。 1933年(昭和8年)作で笠岡市立竹喬美術館が所蔵しています。
この絵は戦争前の昭和8年に描かれた四曲の屏風絵です。若い頃の作品で山々に茂っている樹木の緑の濃淡が丁寧に描いてあります。この絵をしばらく見ていると自分の体が木々の緑色に染まってしまうようです。人間と自然が溶け合うのです。

3番目の写真は「池」です。1967年(昭和42年)の作で東京国立近代美術館にあります。
この絵は碧い池の中に淡い色の水草が浮き、葦が茂っている風景です。水草が水に溶け込んでいるように見えます。私は仏教が好きなので、何故か仏画を見ているような気分になります。

4番目の写真は「沖の灯」です。1977年作です。
茜色の雲が湧き、そして暮れかかった沖には漁火が点々とまたたいています。手前の海の風波には夕日の光が反射しているようにも見えます。中央を大胆に横切る黒い線は潮目でしょうか。
自然の光景の変化の一瞬を捕え、大胆な色使いでいきいきと描いてあります。自然の大きさと静謐さを感じられます。

5番目の写真は「春耕」で1924年作です。 絹本着色,二曲一双で笠岡市立竹喬美術館にあります。
これは35歳の時の作品です。春先に農民が牛を使って田おこしでもしているのです。大きな犂を引くことに疲
れた牛が一休みしているようです。
周囲の樹木の春らしい緑の色調の違いが丁寧に美しく描いてあります。「春耕」という題目が納得されます。これで小野竹喬の画の紹介は終わりにします。
彼は90歳まで生き数多くの名作を描き文化勲章まで貰った幸福な一生でした。しかし悲しい思いは避けられませんでした。息子の悲劇です。
昭和17年に長男の春男が出征して戦死してしまったのです。

6番目の写真の画は遺作の屏風絵です。戦死した小野春男の屏風絵の「茄子」です。1941年(昭和16年)の作でした。
この絵は信州、上田の戦没画学生の遺した絵画を展示している「無言館」にあります。
春男は1917年、京都市生まれ、1941年に同市美術展覧会で入選を果たすなど活躍が期待されていたのです。
翌年に出征し1943年12月2日、中国湖南省で26歳の若さで銃弾に倒れたのです。これまで知られているのは、屏風絵の「茄子」と自画像のみです。息子が親より早く亡くなるというのは悲しいものです。小野竹喬もそのような悲劇に見舞われたのです。
春男は昭和17年に伏見の京都連隊に入営し、敵飛行場を占領して破壊するための作戦に加わっていた歩兵第109連隊に補充されたのです。翌年、常徳殲滅作戦に参加し、11月30日に常徳城の総攻撃が行われ、激しい市街戦が展開された。その日、彼は歩哨に立ち、狙撃され死亡します。
私は小野竹喬の絵が好きな妻と無言館を3度ほど訪れました。上田の奥の遠い所にあります。
無言館には戦没画学生の遺作が展示してあります。鎮魂という言葉を連想させる修道院のようなコンクリート製の建物です。
水上勉の息子が館長でした。彼が全国の遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画が展示してあります。

7番目の写真が無言館です。
この無言館に小野竹喬の息子、春男の屏風絵が展示してあったのです。春男の戦死は竹喬の一生の悲しみでした。
そして無言館に数多くの戦死した画学生の日本画や油彩画が展示してあります。戦争の悲しみが身に沁みます。

今日は優しい美しさを描いた小野竹喬の日本画をご紹介しました。そして息子の戦死と彼の遺作の屏風絵を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料==================
(1)小野 竹喬
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AB%B9%E5%96%AC です。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年) - 1979年(昭和54年))は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。
1889年(明治22年) 岡山県笠間市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。
代表作:
「郷土風景」(1917年) - 京都国立近代美術館
「波切村」(1918年)
「波切村風景」(1918年)
「夏の五箇山」(1919年) - 笠岡市立竹喬美術館
「波濤」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「青海」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「冬日帖」(1928年) - 京都市美術館
「溪竹新霽」(1938年) - 霞中庵 竹内栖鳳記念館
「秋陽(新冬)」(1943年) - 大阪市立美術館
「奥入瀬の渓流」(1951年) - 東京都現代美術館
「奥の細道句抄絵」(1976年) - 京都国立近代美術館