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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本が多神教の故に250年間の隠れキリシタンが可能だった!

2016年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教関連の記事を書きます。
私は隠れキリシタンの歴史を誤解していたような気がします。
隠れキリシタン達の勇気と忠誠心だけで、250年間を耐え偲んで来たと考えていたのです。
しかし昨年、隠れキリシタンで有名な五島列島を3日間訪ねてこの考えを捨てました。同じ島に住んでいる仏教徒や神道の人々が隠れキリシタン達をかばい、取り締まる役人へ密告しなかったから生き延びることが出来たと考えるようになったのです。
つまり日本が多神教の社会だったからこそ隠れキリシタンが生き延びることが出来たのです。

その上、隠れキリシタン自身も仏教や神道や道祖神などとともに、キリスト教の納戸神を信仰していたのです。このように考えるのは自然な考えではないでしょうか?

江戸時代の農民は役人が課する過酷な年貢に苦しんでいました。彼らが役人に反感を持つのは当然のことではないでしょうか?
年に一回、踏み絵で取り締まっても、周囲の農民の密告無しでは役人には摘発することは困難だったに違いありません。
昨年、五島列島で3日間乗ったバスのガイドさんが何気ないように仏教徒の人々が隠れキリシタンをかばっていたと言ったのです。
信じられないような話でした。

しかし考えてみると周囲の人々は隠れキリシタンのことは皆判ってゐた筈です。いくら檀家制で、お寺にお墓があっても住民同士は納戸神のある家を知っていたに違いありません。

話は飛びますが、ヒットラーがユダヤ人を500万人も殺しました。
その犠牲者の多かった国はドイツ本国ではなくポーランドでした。アウシュヴィッツ収容所もポーランドにあったのです。
ユダヤ人を徹底的に拘束し収容所に送るためには周囲の住民の告発が無ければ効率的に実行出来ません。ポーランドでは密告が多数あり一番多数のユダヤ人が犠牲になったのです。
この歴史的事実を考えると何故、日本には250年もの隠れキリシタンの歴史があったかのか理解出来るような気がします。

私は隠れキリシタンの勇気とイエス様への忠誠心に感動してカトリックになりました。
1971年に洗礼を受けて以来45年間、周囲の日本人に意地悪やいじめを受けたことがありません。周囲の人々のお陰で45年間、教会へ通うことが出来ました。感謝しています。

今日の挿し絵代わりの写真は先日、神代植物公園で撮ったダリアの花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)