後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

若き日の冒険と、最後の自慢話、その3

2016年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今回でこの連載を終りとします。
今回書きたいことは戦後のアメリカ人は日本人をどのように思っていたかということです。勿論、アメリカ人と言っても私の接した極く限られた人々の考え方です。
結論を先に書けば男性たちは先の太平洋の戦いで日本人はよく戦ったと感じ、日本人を尊敬すらしているようでした。
女性たちにはそういう意識ではなく、私たちが移民して来たと思い、日常生活に必要な道具を持ち寄って助けてくれたのです。それは後から来る移民を自分たちで助けるというアメリカの美しい伝統文化だったのです。
以上の結論は私共のオハイオでの結婚式と、最初の子供の出産をとうして体験したことから得た結論でした。
まず書きたいのは指導教官のセント・ピエール先生の励ましです。3ケ月ごとの学期が終わると教授室に呼んでくれて実験研究の進み具合を聞いて、いろいろなアドバイスをくれます。そして君は実験が上手だと褒めてくれます。その上、その学期の成績が良かったので、支給するお金を毎月10ドル増やしますと言ってくれたのです。その結果、最初の毎月の支給額の180ドルが8学期後の2年後には260ドルに増えていました。
この少ない支給額から中古の車を買い、その上少しずつ貯金をして婚約者を日本から呼んで結婚したのです。
結婚式の仲人はセント・ピエール先生夫妻に頼みました。
そうしたら奥さんが結婚式場から披露宴の会場など手配してくれました。以下はオハイオの結婚の風習です。
まず奥さんはコロンバス市の地方新聞に電話して日本人の結婚の記事を出して下さいと頼んだのです。結婚の時は地方紙に出すものだと言うのです。1961年の5月21日のコロンバス・ディスパッチという新聞にかなり大きな記事が出ました。
その一方、奥さんは私の同級生の妻たちを自宅に呼び集め、結婚式と披露宴の招待状を準備してくれました。伝統に従って招待状は手書きにしなければいけないと言います。呼び集めた数人の妻たちが手分けして書いてくれたのです。
招待客はアメリカ人と現地の日本人会の方々でした。日本人のほうには家内が手書きの招待状を書きました。日本人会の方々には私共の送迎をしたり、会場での写真撮影をして頂きました。
結婚式は大学の質素なチャペルでしました。私共は当時はまだクリスチャンではなかったのですが、アメリカ人はそんなことは気にするなとおおらかです。
オハイオの風習では結婚式や出産の前に奥さんたちが集まり必要な日用品を贈ってくれるシャワーというパーティがあります。
お茶とクッキーだけのパーティに皆が集まり、贈り物をくれるのです。贈り物は食料品とレシピ、ナベや食器や裁縫道具や、兎に角、日用品に限ります。高価な贅沢な品物はありません。贈り物に対して「お返し」は絶対にしてはいけません。
最初の娘が生まれた時は、日用品だけでなく中古の乳母車や赤ん坊用のベットまで貸してくれました。それらは順送りに他の赤ん坊へ贈る伝統なのです。
これらの風習は貧しい移民がアメリカで家族生活をするための互助精神の伝統文化だったのです。
その他、結婚や出産にまつわるアメリカの面白い体験もいろいろしましたが、長くなるので省略します。

さてアメリカの男性たちは先の太平洋の戦いで激戦を交わした日本人をどのように思っていたのでしょうか?
戦後の日本の新聞にはアメリカ人が日本軍の残虐行為を非難しているというような記事が何度も出ていました。
しかしオハイオに住んでみるとそれを言う人に会ったことがありません。
むしろ日本人の戦いぶりに驚き、内心では少し尊敬しているような感じを受けたのです。
特にカミカゼ特攻隊には良い意味でも悪い意味でもアメリカ人は心に刻んでいたのです。
夜遅くまで実験室にいると同級生が私の所に寄って来て、ニヤリと笑いながら、「カミカゼは止めて早く家に帰って寝ろ!明日、試験があるだろう!」と冗談を言います。
それ以来、私はアメリカ人が私へ親切にしてくれたら神風特攻隊のお陰だと思うようになりました。なにせ私の通っていた新制中学校には特攻隊帰りの社会の先生がいてよく空中戦のコツを話していたのです。そして君たちは特攻隊のためにも日本を復興させねばならないと繰り返し話していたのです。

それから日本の新聞は真珠湾攻撃を非難していましたが私はアメリカ人からその非難を聞いたことは皆無でした。
たった一度だけ酔っぱらった退役軍人のアメリカ人に酒場で日本軍の悪口をさんざん聞かされたことがあります。一緒に戦っていた親友をジャップに殺されたと怒っていたのです。私はしずかに聞くだけでした。
しかし先の太平洋戦争で日本軍はアメリカの民間人は殺しませんでした。アメリカは日本全土の空襲で多数の民間人を殺しました。アメリカ人は決して言いませんが、そのことを知っているのです。しかし隣の席で酔っぱらってジャップの悪口を言っているアメリカ人へそのことも言いませんでした。親友を失った男の悲しみが分かるからです。
もっと書きたいことは沢山ありますが、これで若き日の冒険と、自慢話の連載記事は終わりとします。
写真に結婚式に関連する古い画像を示します。55年まえの写真なので、かなりボケています。ご勘弁下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


上の1番目の写真はオハイオ州の地方新聞のコロンバス・ディスパッチ紙の写真です。1961年5月21日の新聞で、我々の5月23日の結婚式に関する報道です。写真の左は仲人をしてくれた指導教官のセント・ピエール教授の奥さんで、中央が小生で右が現在の老妻です。

2番目の写真は大学内のチャペルでの結婚式に正装して出席してくれたアメリカ人の同級生の写真です。

3番目の写真は披露宴のパーティをしたコロンバス市の中心街にあったディッシュラー・ヒルトンホテルの写真です。

4番目の写真は披露宴のパーティの会場入り口でお客さまを歓迎するレセプションラインです。左の長身のアメリカ人が仲人をしてくれた指導教官のセント・ピエール先生です。人の陰になって写っていませんが、セント・ピエール先生の右は私の父が立っていました。右端が小生で、その左が妻です。

5番目の写真はウエデング・ケーキにナイフを入れている小生と妻です。

6番目の写真は右からセント・ピエール教授、その左がラリフ・スパイザー教授です。その左が小生で左端が妻です。スパイザー教授の量子力学の講義が難解で理解出来ませんでした。理解出来なきなくても暗記して試験を突破しました。恥ずかしい話です。

7番目の写真は同級生の奥さんたちです。左がデイール・ピーターの奥さんで、右がジェリー・ワースの奥さんです。現在見てみるととても若いのに驚きます。

7番目の写真は披露宴に出席してくれた同級生と奥さんです。左がディック・ホワイト夫妻と右がジム・バテル夫妻です。
こうしてあれ以来、茫々55年経ちましたが同級生の名前を皆覚えていることに我ながら驚いています。若い時に知り合った人は忘れないのですね。