後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

何も無い、あるのは樹林ばかり・・・のんびりした気分になって下さい

2013年09月14日 | 写真

とにかく面白いものが何にもありません。あるのは蝉の声とはてしなく広がっている樹林だけです。

落ち葉焚きをして、岡へ登る急坂の補修をしました。部屋の中にころがり窓の外の緑の葉を見上げてのんびりした気分を楽しみました。

老境なので、東京の自宅にいてものんびりしています。しかし甲斐駒山麓の山林の中の小屋へ行くと、もっと深くのんびり出来るから不思議です。「のんびりの度合い」が各段に違うのです。

下の写真をご覧になって、のんびりした気分になって頂けたら嬉しく思います。

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・自宅から袋に入れて運んで来た 落ち葉や切り枝を炉で燃やします

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・良い香りの白い煙が立ち上る それだけの事ですが

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カーペットに寝ころがって窓の外の梢をぼんやり見ていました

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小川のせせらぎもあいかわらず

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陽も大分傾いてきたので家路に着きます  ただこれだけの一日です


自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(9)甲斐駒山麓、旧武川村柳沢地区の歴史

2013年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム

小生の山林は柳沢の水田地帯から山林深く登った所にあります。

小屋の現在の住所は山梨県北杜市武川町柳沢4562番地小山平122号です。

これは法務省白州支所の公式の台帳上の住所で、誰もその場所を探しだせません。番外地なのです。東京電力の毎月の請求書には番外地とは書けませんから、柳沢1番地などといい加減な住所を書いた請求書が毎月、小屋のドアに挟んであります。

北杜市に住民票を届けて、山林に住んで居る人は法務省白州支所の公式の台帳上の住所で、郵便局や地元の宅配会社からものが届きます。

しかし水田の広がっている柳沢地区の歴史が気になり、昨日、写真を撮りながら現地で調べてきました。

この地域の歴史が文献に明確に現れるのは、平安末期から鎌倉時代にかけて土着武士の「武川衆」が稲作を主にして住み着いていたことが書かれています。

その事は昨日の記事、自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(7)鎌倉、室町、戦国期の山梨県の領主(国衆)たち で詳しく書きました。

そして柳沢には鎌倉末期(あるいは室町時代の初期)から武田信玄が滅びるまでの約300年間弱、柳沢氏が在住し、この地区を統治して来たのです。

甲斐守護の一条家の子供の弥十郎信興(やじゅうろうのぶおき)が柳沢に封を受け、住みはじめたのが最初です。この年号があまりはっきりしません。鎌倉時代の末期(1333年)か室町時代の初期と考えられます。

その後、弥太郎から6代続き、最後は柳沢信俊です。

1590年に徳川家康が江戸城に入り、この柳沢信俊は、他の武川衆と共に現在の埼玉県の寄居町へ移住させられたのです。

この信俊の孫の柳沢吉保は江戸の老中、川越城主、甲府城主として再び歴史の表舞台に現れるのです。

さて柳沢には鎌倉末期から武田信玄が滅びるまでの約300年間弱、柳沢氏が在住したという痕跡は残っているのでしょうか?

結論をさきに書けば柳沢氏が開基した「柳澤寺」の石塔や墓石が集められて保存公開されているだけです。そのほか柳沢氏の屋敷のあった場所が「弥太郎屋敷跡」として言い伝えられているだけです。

それでは昨日撮って来た写真を示します。

まず国道20号線(甲州街道)で韮崎市を過ぎると以下のような武川町の境界にある看板が出て来ます。

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武川町という名前は、この看板の手前に流れている小武川(こむかわ)と町の中央を流れている大武川(おおむかわ)という川の名前に由来しています。

この看板の先にある「牧原交差点」を左折して柳沢方面への道を走りますと下のような柳沢氏の屋敷跡に建てられてた石碑があります。周囲は広い水田です。

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この石碑を過ぎて柳沢のに入ると「六地蔵」という案内板が出て来ます。道をそれて左に入ると「柳澤寺」と「六地蔵」の標識があります。下は六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)の写真です。石灯篭のようなものが立っていて上の傘の中に6体の小さな地蔵さんが祀られています。

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こういう形式の六地蔵石幢は室町時代に中国から伝承されました。この石幢には1496年(明応5年)献白(作)と刻んであり、室町時代のものと明確に判ります。

したがって柳澤寺は曹洞宗の寺で室町時代の初期に柳沢氏によって開基されたと推定されています。曹洞宗の寺であったことは「甲斐国志」という文献に書いてあります。

この柳澤寺の跡地には山門も本堂も庫裏も残っていません。

 

何度も焼失したり水害で流されたりして、廃絶と再興の繰り返しだったと伝承されています。

本堂があったらしい場所に地区住民の集会所らしい建物が立っていました。そしてその裏には下の写真のように拾い集めたような地蔵さんや墓石が並んでいました。
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この墓石をよくみると曹洞宗のお寺の住職のお墓が一つだけあります。

後列の左から4番目の墓の頭が丸くなっていて住職の墓であることが判ります。住職は何代も居た筈ですからもっと墓があってもよいのです。しかしたった一つしか残っていません。

お寺や神社は永遠に続くように思えますが、実は多くのお寺や神社が廃絶と再興を繰り返すのが普通なのです。なかには廃絶したまま忘れられてしまうお寺も多いのです。お寺の名前だけが地名として残っている場合もあります。そこにはお寺の影も形も無いのです。

上の写真にある住職様のお墓を見ながら、私はお釈迦様の言ったことを思い出し、溜息をつきます。

お釈迦様が、死んだら自分の墓を作るな、骨は遠い荒れ野に捨てよと言って亡くなったことを、考えていました。やっぱりお釈迦様は偉いと感じるのです。

それはそれとして柳沢のにある伝統的な屋敷の写真を下に示します。石組の空堀に囲まれた昔の武川衆の一つの屋敷を彷彿させる家です。

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こんにちはと声をかけて、石橋を渡り、門を入りましたが誰も居ません。振り返って見ると下の写真のように武川米が実っている水田が広がっていました。

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もっと詳しく知りたい方の為に説明板の写真を示します。クリックすると拡大します。

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そして参考資料は下記にあります。

http://www.webtoday.jp/2010/10/post_1123.html

http://www.xhotzone.net/xdb/fth/jiin19.php?p=21

http://gallery1999.web.fc2.com/singen/siseki-hokuto6.htm

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)