上の写真は甲府盆地を東西に横切っている中央高速道路の写真です。
道路の左側が南方向で、写真の左に写っている山々は南アルプスです。写真には写っていませんが右手の奥の方角に八ヶ岳があります。
写真の手前は富士山の外輪山です。
甲府盆地は八ヶ岳と南アルプスと富士山の外輪山に囲まれた広い盆地です。この外輪山の向う側の上の高原に山中湖、河口湖などの富士五湖があります。
甲府盆地では、夏は気温が非常に上がり、釜無川と笛吹川の豊かな水があるので弥生時代から水稲栽培が行われていました。下の写真は北杜市の武川米が実っている様子です。
この写真は昔、武川村と呼ばれていた場所で、現在は北杜市武川町と呼ばれています。
この北杜市南部の武川地区で稲作が始まったのは甲斐の国衙や国分寺が甲府盆地の東の方の笛吹市に出来た頃からと想像できます。朝廷に献上する馬や農産物が必要になったので開墾が進み、稲作も広まったのではないでしょうか?
この旧武川村には山高、横手、柳沢、旧武川村役場のある牧原と村落が別れていて、それぞれに、在地の領主が居たと言います。
このような在地の領主たちのことを、古墳時代から平安時代の末期までは「豪族」と呼ぶのが一般的です。
そして鎌倉期になるとこれらの在地の領主は豪族とは呼ばないで、「国人」あるいは「国衆」と呼びます。
豪族も国人も形式的には大和政権に服従していますが、地方の小さな独立国のように領民を統治していたのです。
それが戦国時代になると有力な武将、例えば武田信玄のような強大な武将が現れると起請文(誓約書)を書いてその配下になります。言ってみれば契約で雇われた家臣たちなので武田勝頼が敗けそうになると蜘蛛の子が散るように自分の領地へ帰ってしまうのです。
それでは鎌倉期以降に甲斐の国にはどのような領主達(国人たち)が居たのでしょうか?
Wikipedeaの日本全国の国人一覧表を見ると以下のようになります。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA)
穴山氏、小山田氏、跡部氏、甘利氏、板垣氏、波木井氏(南部氏)、市川氏、大井氏、飯富氏、小佐手氏、馬場氏、諸角氏、横田氏
これらの中で現在の北杜市の範囲の領主(国人)は馬場氏です。
この馬場氏については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%B0%8Fに説明があります。
馬場氏はもともとは他の土地から武川村の東隣の教来石という土地へ移住して来た外来人でした。教来石は現在でもある地名です。
始めは教来石氏と名乗り、武川地区の下記のような在郷武士団の配下として、教来石の一領主になったのです。
それが後に信玄の命令で馬場の名前を貰って、馬場美濃守信治と名乗り、信玄の重臣として活躍したのです。在郷武士団とは武士がそれぞれ田畑を持っていて、使用人に耕作させている武士たちです。それに対して領主とは広い農地や財産を所有していて小作人に耕作させている有力者のことです。
ところで小生の山小屋の以前の住所は山梨県武川村柳沢と言いましたが、その武川村には鎌倉時代前後から武川衆という土着の武士団が住んでいたのです。
甲斐国では特定地域に土着する「~衆」と呼ばれる辺境武士団が存在し戦国期には武田家臣化しています。武川衆は北杜市須玉町の津金に居た津金衆や上九一色村に居た九一色衆とともにその代表的存在でた。鎌倉時代に一条時信(源八)の子孫から分出したと言われています。
このことは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B7%9D%E8%A1%86に書いてあります。この資料にようると、この武川衆には下記の人々が居たと分かっています。
家康安堵状中より、
青木尾張守時信
柳沢兵庫丞信俊
折井市左衛門次昌
折井長次郎次正
米倉六郎右衛門信継
米倉左大夫豊継
米倉加左衛門定継
曲淵彦正正吉
小沢善大夫
横手源七郎
青木弥七信安
折井九郎次郎次忠
このうち柳沢兵庫丞信俊は、戦国時代の武将で江戸幕府旗本。甲斐武田氏の家臣で、江戸時代中期に5代将軍徳川綱吉のもとで側用人として活躍した柳沢吉保の祖父として知られている。
上のように小生の小屋がある旧称の武川村には鎌倉時代から在郷武士が多く住みついて居たことが分かります。それを支えてたのが武川米だったのです。
尚、水田のある地区と小生の小屋のある山林の境界線は実に厳然としています。
冬に行くと、その境界線の山林側だけに雪が降るのです。水田地帯には降っていなのです。ですから山林側には昔からの人は住んで居ません。
山林側を本格的に開拓したのは第二次大戦後に外地から引き揚げて来た人々だったという話を聞いたことがあります。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)