後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

2ケ月の猛暑の後やっと涼しい日が来ました!

2010年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

7月の第一週に梅雨が明けて以来、猛暑の日々が続きました。途中、1日や2日は最高気温が35度以下の日々もありましたが、東京の暑さは酷いものでした。

それが今日の朝から台風が来て、雨です。夕方から気温が下がり、久しぶりに高原のように涼しい風が吹いています。

いよいよ待望のヨット遊びにも行けそうです。写真をみて楽しんでいます。

皆様のお住まいの土地にも涼しい風が吹いていますでしょうか?

お元気で秋の日々を楽しまれることをお祈り申し上げます。

霞ヶ浦での2年前のある日のヨットの風景をお送り致します。乗っているのは私で、家内が岸壁を走りながら写真を撮りました。

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アメリカのイランへ対する怨念は親米だったパーレビ国王のホメイニによる追放に始まる

2010年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

イランの原子爆弾や核弾頭開発へ対するアメリカの異常なまでの反対と、イランへ対する怨念を理解する鍵は、1979年に起きたホメイニ革命を少し調べると明快に分かります。

Wikipedeaで「パーレビ国王」を検索すると親米派の国王の1979年の追放と、ホメイニ革命の経緯が出て居ます。そして実権を握ったホメイニがイランアメリカ大使館人質事件を起こし52名のアメリカ人外交官とその家族、そして海兵隊を1年以上も軟禁してしまうのです。

Wikipedea で「イランアメリカ大使館人質事件」を検索するとアメリカの失敗が説明してあります。

アメリカとイランの悲劇的な運命が、1979年以後、悪い方向へ、悪い方向へと転げ落ちて行きます。

是非、この2項目を検索してお読み下さい。そして日本の正しい対応の仕方を私へお教え下さい。コメントをお待ちしています。

下に「パーレビ国王」の項目、http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%93%E5%9B%BD%E7%8E%8B&search.x=1&fr=top_ga1&tid=top_ga1&ei=UTF-8 から転載した2枚の写真を示します。

上の写真はイランとアメリカが蜜月関係だった時期にパーレビ国王がニクソン大統領夫妻を訪問したときの写真です。下の写真はパーレビ国王の正装した姿です。

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2000年以上前の「石打ち刑」をしているイラン(ペルシャ)と欧米の干渉

2010年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

キリスト教の新約聖書に「石打ち刑」の場面が活き活きと描かれています。姦通をした女を広場に坐らせ、周りを群衆がグルリと囲みます。群衆の手には大きな石が握られ、まさに女めがけて投げつけようとしています。姦通罪へ対する死刑を執行しようとしています。役人が「はじめ!」と言う直前にイエス様が大声でいいます。「あなた方で石を投げつける資格のある者だけが投げよ!」と言うのです。群衆が静まり、やがて一人去り、一人歩きだして、終いには女だけが広場に残ります。イエス様は、「女よ、そなたの罪は許された」と言います。やく2000年前に書かれた新約聖書の一場面です。

キリスト教国では石打ち刑は廃止になります。しかしイスラム教国では現在でもこの伝統が守られているのです。

それと全く同じ刑罰がイラン(ペルシャ)で執行される計画だったのです。イタリアとフランスの外務大臣が執行停止を申し入れたという新聞記事が今日の読売新聞の6ページ目に掲載されています。

イラン政府はイタリアとフランスの申し入れに従って姦通罪の再調査をすることで執行は延期になったようです。

さて皆様はこの報道をどの様に思いますか?イランという独立国の刑法の執行に外国が干渉したのです。国内政治への干渉です。ヨーロッパの思い上がりです。・・・と私は思いました。しかしこういう場合は人道的な干渉として許されるとも思いました。

それにしても最近の日本はアメリカの言いなりになって、イランをテロ輸出国家という非難を支持するような報道が多すぎます。アメリカが原爆を日本へ投下し、現在は20000発以上の核弾頭を保有しています。そのくせ後発の国々が原発を持とうとすると妨害します。これは公平の原理に反すると私は感じています。

この際、アメリカがイラン(ペルシャ)へ対して行ってきたことをWikipedeaのイランの項目から抜粋します。お読み頂き、ご参考にして頂ければ嬉しく思います。

======Wikipedeaの「イラン」の項目からの抜粋です======

イランに対するアメリカ合衆国の政策

1953年 - 1978年のパフラヴィー政権時代は政権が事実上アメリカの傀儡であったため、アメリカとの関係は質量ともに重大だった。1979年4月のイスラム革命時に、革命政権がアメリカ政府に対して、パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の関係に変更し、パフラヴィーが私物化した財産をイランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄をイランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。革命運動勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を人質にアメリカ政府に対する要求を継続した。カーター大統領は1980年4月にイランに対する国交断絶と経済制裁を実施した[4]。イスラム革命時以後の歴代のアメリカ議会・政府は、イランを反米国家と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。アメリカ政府は1984年にレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2008年現在まで指定を継続している[5]。アメリカ政府は1995年にクリントン大統領が、アメリカ企業に対してイランとの貿易・投資・金融の禁止措置を実施した。アメリカ議会は1996年にイランとリビアの石油・ガス資源を開発する企業を制裁するイラン・リビア制裁法[6]を可決してクリントン大統領が署名して成立し、アメリカ議会は2001年と2006年にも制裁期間を延長する法案を可決し、ブッシュ大統領が署名して成立し、イランに対する制裁を継続中(リビアとは関係を修復し制裁は解除した)である。ブッシュ大統領は2002年の年頭教書でイランを悪の枢軸と表現して批判した。アメリカやイスラエルや国民の大部分がキリスト教徒である国は、イスラエルの打倒を主張するヒズボッラーハマースイスラム過激派と認識し、イランがヒズボッラーやハマースを支援していると指摘している。2008年1月、ブッシュ大統領は、クウェート、バーレーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、エジプトを訪問して、訪問諸国の政府に対して、イランをテロ支援国家と認識して、国際的なイラン包囲網への参加・協力を要請したが、いずれの訪問国の政府もイランとの友好関係の形成を推進中であり、ブッシュ大統領の要請に対して、いずれの訪問国の政府からも賛同・協力は得られなかった。(以下省略)

2009年のイランの反アフマディネジャド派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し[7]、アメリカ政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した。

日本の新聞でもアメリカ政府がイランの体制の根幹にゆさぶりをかける、という内容の記事が掲載されたことがあり、米Newsweek誌2010年2月3日号でもアメリカ政府関係者がこの頃のデモに関して、イランへの内政干渉を完全に肯定し、西欧化を押し付けようとする覇権主義的な発言をしている。2010年2月の革命31周年の際には、数千万人の体制派の国民が行進に参加したとされ [8](イランの国営プレステレビでもこのことが伝えられた) 、 長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたと最高指導者ハーメネイ師が述べている。

http://www.google.co.jp/imglanding?q=iran&imgurl=http://timm84.f から2枚の写真を転載させて頂きました。転載にあたって感謝の意を表します。

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中近東文化センター付属博物館の紹介(2)3279年前の平和条約の大発見

2010年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

貴方は現在の日本の平和に感謝していますでしょうか?この平和は1951年にサンフランシスコで吉田首相が署名した「平和条約」のお陰です。アメリカ、インドをはじめ多くの西側諸国との間に出来た重要な平和条約です。しかし、ロシアと北朝鮮とは平和条約はまだ出来ていません。

毎年、8月になると広島と長崎で平和の祈りが奉げられます。祈りも大切ですが平和を保障する条約も重要です。

昨日、博物館で何気なく見ていたら、3279年前にエジプトとヒッタイトの間で交換された平和条約の写真を見つけました。紀元前1275年にヒッタイトの王、ムワタリ2世とエジプトの王、ラムセス2世との間で戦われたカデシュの戦いの6年後に交換された平和条約です。カデシュは地中海に面したシリアの西部だそうです。

ヒッタイトの言葉で書いた粘土板とエジプトの絵文字で書いた石板の両方がそれぞれの国で発見され、条文を読み下して見ると内容が一致したのです。

平和条約の内容は、この条約の目的、停戦後の捕虜と亡命者の交換、領土の分割、平和になった後の交易などについて理路整然と明記してあります。

我々は欧米は契約の社会だと信じています。しかし欧米の契約社会はエジプトやヒッタイトなどの古代国家の単なる継続に過ぎないのです。

話は飛びますが、昔の日本には「平和条約」という概念が存在していたでしょうか?例えば秀吉が朝鮮へ攻め込んで、後に引き揚げてきました。引き揚げる前に敵の李王朝と平和条約を締結したでしょうか?それが無ければ敵国は復讐のために日本へ攻め込んできます。そのような発想が皆無なのが日本の歴史でした。第二大戦を始める前から、戦後処理の「平和条約」を想定して仲介国を準備したでしょうか?

私が「中近東文化センター」にひどくこだわっている本当の理由を書きます。

アメリカとイスラム諸国は2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件以来激しく戦ってきました。日本のマスコミにはアメリカ側から見たいろいろな報道がなされています。しかし、私はイスラム諸国の視点から見た理解を、「自分なり」に考えたいと思っています。これが中近東文化センターにこだわる本当の理由です。幸い65歳以上の入場料が400円なので気軽に何度でも訪問できます。

イスラム諸国、とくにイラン、シリア、昔のイラク、アフガニスタンのタリバンなどは悪で、アメリカは善だと明確に断じて良いのいでしょうか?博識の方々へお願いしますが、是非私の知識の不足しているところをお教え下さい!

下にヒッタイトとエジプトの間に3279 年前に交換された平和条約に関する展示物の写真を示します。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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