後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

新撰組隊長、近藤勇のお墓の写真をお送りします

2010年09月05日 | 写真

昨日、新撰組の土方歳三のお墓についてご報告いたしました。そこで今日は隊長の近藤勇のお墓の写真を撮って来ましたので掲載致します。

三鷹市の大沢にある龍源寺は近藤勇の実家の宮川家の菩提寺です。墓には花が供えられて参詣の人が絶えないようです。写真の若い女性も、日野にある歳三のお墓にも行ってきたと言っていました。掲載許可を頂きましたのでお墓のにぎわいの一助にでもなろうかと思い、下に示します。尚、龍源寺へのアクセスは「大沢山龍源寺」として検索すると詳しく出てきます。近藤勇は人望もあり、教養もありました。写真にありますように辞世の漢詩も作って、板橋で処刑されました。江戸で、近藤流の剣術を修行していたので幕府側についたのも自然の流れです。しかし運命とは言え、35年の短い壮絶な一生でした。合掌。

===近藤勇の墓・碑と言われるものは他に次の各地にある======

近藤勇昌宜。慶応4年4月25日没。享年35才。法名は貫天殿純誠義大居士。この最高級の戒名は会津藩主松平容保の命と言われている。
板橋駅 近藤勇土方歳三之墓

元新選組隊長倉新八(杉村義衛)が時の軍医総監松本順の揮毫を求めて、最初の屍を埋めた斬首の地に、土方歳三への追悼の意味も含め建立したもの。

会津若松愛宕山天寧寺

遺体そのものとは縁故はなく、近藤勇処刑の報を聞いた土方歳三が転戦先の会津若松の地に建立したもの。

京都壬生寺

胸像とともに遺髪塔が建てられている。

010 016 018

011 012 013 014 017


人の居ないところでも繁盛しているトンカツ専門店

2010年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム

070 071

人通りの非常に少ない道路に面して、トンカツ専門の「ままや」という食事所があります。山小屋へ行く度に、もう十数年間も前を通っていますがお客さんが出入りしているのを一回も見たことがありません。上の写真のように看板を出していて、食事も出来るような建物もあります。

昨日の記事、落馬したのでこんな幸せな人生になりました・・・運命の不思議 で紹介した、オブリガードという客の来ないレストランの真向かいにあります。

一昨日、山小屋の帰りに初めて寄りました。白いコック服を着て、白い高いコック帽の似合う精悍な中年男が出て来ました。今までトンカツを揚げていたような良い香りがします。ブログで紹介したいのですが、お客は来ますかと聞きました。彼は自信ありげに、「お客はこの近所の人々で、出来たたてのトンカツを夕食に届けています。繁盛していて忙しいです」と言います。そしてブログに出すならこのメニューを紹介して下さいと言います。予約は必要ありませんが、電話をして来てくれると美味しい肉をとっておきますと付け加えます。味に自信があり、またその味が評判になりかなり広い地域の住民が夕食や宴会に注文しているようです。私は目から鱗で、「本当に美味しい料理が作れる腕さえあれば何処に店が有っても繁盛するものだ!」と新しい発見をしました。世の中には知らない事が多いものです!

ちなみに「ままや」の電話番号は、0551-26-2545です。

ヒレ 定食・・・950円、ロース 定食・・・900円、梅しそカツ 定食・・・900円、明太カツ 定食・・・950円、チキンカツ 定食・・・800円、海老フライ 定食・・・950円、生姜焼 定食・・・850円、豚味噌漬焼 定食・・・900円、メンチカツ 定食・・・800円、コロッケ 定食・・・700円、鯵フライ 定食・・・800円。

都会に住んでいると駅前のような人通りの多い所しかレストランや食事所は繁盛しないと思い込みがちです。しかし交通不便な地方へ行くと、通行人の数ではなく本当に美味な料理を作る腕の有無が決定的に重要になるらしいです。とても新鮮な気持ちになって帰って来ることが出来ました。つまらない話でご免なさい。(終り)


江戸初期の大旅行家、ペトロ岐部と玄奘三蔵法師の比較

2010年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム

045

明治維新前の日本人の大旅行と言えば遣隋使、遣唐使、東南アジアで活躍した山田長政、そして天正の少年使節のローマへの旅くらいである。学校で習う歴史の教科書に出てくるので誰でも知っている。ところが江戸時代初期にマカオ、ゴア、そして単身、紅海を北上し、中近東の砂漠を通ってイエルサレムへ参り、更に長馳、ローマまで往復した男がいた。帰国後は日本国内を司祭として回り、最後は岩手県の水沢で捕縛され、三代将軍、家光の膝元の江戸で殉教している。その男の名はペトロ岐部。2009年の11月24日に、長崎の列福式でローマ法王によって福者として認めらた。

この日本人の事は遠藤周作の著作には詳しく紹介されているが、日本人の間では知らない人が多い。しかし、宗教関係者だけでなくもっと彼の旅の実態に興味を持つ人も多いと思う。

そこで、簡単に彼の旅の行程をご紹介したいと思う。

マカオを出たのが1617年、ローマに着いたのが1620年である。3年間の長旅である。特に中近東はイスラム教の地域である。従者も居ない一人旅である。それでも中近東の地を安全に歩くことが出来た。砂漠の異民族のの助けがなければ旅は続けられない筈である。そのことをあれこれ考えてみる。岐部には異民族へ好意を持たせる人格的な力が溢れていたに違いない。

話しは飛ぶが、唐の都からインドへ往復の旅をした玄奘三蔵法師のことを思い出す。途中の国々で手厚く迎えられたという。

岐部にも玄奘三蔵法師と同じような圧倒的な人徳がそなわっていたのだろう。そしてこの人徳は宗教とは無関係に異教徒をも感動させるのだろう。

大旅行家や冒険家に必要なものは体力だけではない。

ローマに着いたのが1620年の6月、そして5ケ月後には司祭になってしまう。異例の早さである。これも岐部の人徳の威力によると筆者は考えている。その後2年して彼は帰国の旅にでる。帰路は海路をとったが、特にルバング島からは漁船を雇い、キリシタン禁教の厳しい日本へ潜入してきた。1630年と言われている。

以上が、日本が世界に誇れる大旅行家としての岐部の紹介である。

以下は殉教したペトロ岐部司祭の宗教人としての紹介である。1620年から1622年までローマの修道院で司祭として活動していたが、その間にイエズス会を創立したイグナチオ・ロヨラとザビエルの列聖式に参列する幸運に恵まれている。

ペトロ岐部司祭は大分県に1587年に生まれ、長崎の神学校を卒業し、1614年に徳川家康によって国外追放される。徳川の時代も三代将軍、家光になり、キリシタンの迫害や殉教が一層熾烈になってきた。その時にペトロ岐部司祭は隠れキリシタンの希望と慰めを与えるために日本へ潜入したのだ。

潜入後、9 年間も日本各地を司祭として巡回し、ついに水沢で捕まる。江戸で処刑されるが処刑したときの記録が残っている。「ころびもうさらずのでしょけいした」という意味の文言が見える。処刑した人も気の毒だったと思う。

一方、玄奘三蔵法師は唐の長安に帰国後、インドから持ち帰った膨大な経典の翻訳を成し遂げ安らかな死に方をした。しかしお釈迦様の言う通り、遺骨は長安の郊外の野に捨てられたという。現在、日本人の読んでいるお経の大部分は玄奘三蔵法師がインドから持ち帰ったものである。

ペトロ岐部司祭と玄奘三蔵法師のどちらが偉いか?全く無意味な疑問とは思いつつ時々私はこの二人のことを思い出す。私どもは随分昔に死んでしまった人々のことを意外にも覚えているものです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人