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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「岩手県の夏の三陸海岸の風景」

2025年07月02日 | 写真
岩手県のリアス式海岸は、三陸海岸の南部に見られる特徴的な地形です。リアス式海岸は、川が山地を浸食し、形成された入り江が連続する地形です。岩手県では、この地形が漁業や観光業に大きく貢献しています。
 夏の三陸海岸の風景の写真をお送り致します。

「岩手の南部藩の歴史と写真」

2025年07月02日 | 写真
南部藩は岩手県中部と青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩でした。藩主が南部氏でした。盛岡藩とも呼ばれます。この地域には独特な文化があります。魅力ある地域です。
甲斐国にいた南部氏の始祖の南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に来て現在の南部町 (青森県)に宿をとった のが始まりです。
慶長 5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康から南部藩は所領が安堵されました。10万石の大名として認められたのです。
明治維新では奥羽越列藩同盟への参加します。そして南部藩は新政府側へ屈服しました。南部藩は終わったのです。
なお遠野南部家は藩の新政府側につき、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり新政府側へついたのです。
この地域の独特な文化や魅力を写真で示します。

1番目の写真は南部藩の盛岡城の石垣です。この城は不来方(こずかた)城とも呼ばれていました。

2番目の写真は盛岡校外にある小岩井牧場です。後ろは残雪の岩手山です。宮沢賢治は農場とその周辺の景観を愛好し、しばしば散策した。中でも1922年(大正11年)5月の散策は、詩集『春と修羅』に収録された長詩「小岩井農場」のもとになりました。この詩の中には当時の農場の様子が描写されています。
盛岡の光原社は『注文の多い料理店』を出版しました。宮沢賢治の生前に出版された唯一の童話集です。1924(大正13)年でした。光原社の創業者は及川四郎氏で宮沢賢治とは盛岡高等農林学校で先輩、後輩の間柄だったのです。
3番目の写真は柳田国男の遠野物語の表紙です。
『遠野物語』は柳田国男が明治43年(1910年)に発表した、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集です。
遠野地方の民話蒐集家であった佐々木喜善より語られた遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版されました。

4番目の写真は遠野地方の曲がり家の農家です。遠野物語の座敷童はこんな農家に出ました。

5番目の写真は遠野物語のカッパ淵です。カッパが出そうな不気味な流れです。
石川 啄木をご紹介したいと思います。
石川 啄木(1886年(明治19年) - 1912年(明治45年))は岩手県出身の日本の歌人、詩人です。
旧制盛岡中学校中退後、『明星』に寄稿する浪漫主義詩人として頭角を現し、満19歳で最初の詩集を刊行しました。しかし貧しく代用教員や新聞記者として勤める傍ら小説家を志すも失敗します。東京で新聞の校正係となってから1910年に刊行した初の歌集が『一握の砂』です。新しい歌風を取り入れ歌人として有名になりました。そして結核により満26歳で亡くなります。

東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 

石川啄木の歌集『一握の砂』よりです。

今日は岩手の南部藩の歴史と写真をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「岩手県と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」」

2025年07月02日 | 写真
岩手は文学者の故郷です。彼等の関連のある盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら石川啄木の短歌を思い出しました。

「不来方の
お城の草に
寝転びて
空に吸はれし
十五の心」

盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。

滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口ずさみました。
「やはらかに
柳あをめる
北上の
岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに  (石川啄木の短歌です。)

岩手は宮沢賢治の故郷です。
そこで今日は宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致します。
写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/ です。
 
1番目の写真は「盛岡城跡公園」です。
盛岡城は、江戸時代の藩主である南部家の居城として嘉永10(1633)年に完成しました。

2番目の写真は岩を割って咲く 「石割桜」 です。盛岡の観光名所です。

賢治に関連した土地をめぐる旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問し、賢治がよく行った小岩井牧場に行き、その後で花巻市の羅須地人協会などを訪ねました。 写真を示します。全てインターネットに出ている写真をお借りしました。

3番目の写真は北上川の流れる盛岡市です。岩手山の見える非常に美しい町です。

4番目の写真は北上川にそった場所にある光原社です。光原社の創業者は宮沢賢治と親交があり賢治の「注文の多い料理店」を出版しました。また光原社という社名も宮沢賢治が名付けました。「注文の多い料理店」の初版本が展示してあり、家内は手にとらせてもらって大喜びしていました。

5番目の写真は賢治がよく遊んだ盛岡の郊外の小岩井牧場です。ゆっくり散策して来ました。
ついでに花巻市ある賢治が設立した羅須地人協会も訪問しました。賢治は大正15年に花巻農学校を退職し、花巻市に農業技術などを講義するため羅須地人協会を開設したのです。

石川啄木や宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「京都の郊外にある美しい竹林の写真」

2025年06月30日 | 写真
あれは30年くらい前のことです。京都の郊外にある美しい竹林の中の道を歩いたことがあります。見事な竹林でした。
その風景に似た写真をお送りいたします。
写真はインターネットからお借りしました。
 

「ドイツのカトリック教会の写真」

2025年06月29日 | 写真
ドイツの教会はカトリックとエバンゲリッシュ で多少違います。エバンゲリッシュ とはプロテスタント教会のことです。ドイツのカトリック教会の写真を示します。壮大なケルンの教会等が有名ですが村の小さな教会も紹介します。
1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。
2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。
3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。

4番目の写真はヴィースの巡礼教会 です。南ドイツのどかな田舎の牧場の中にポツリと建つ 教会です。南ドイツのコロマン教会 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック小金井教会のミサの風景写真」

2025年06月28日 | 写真
カトリック小金井教会のミサの風景写真です。私どもの教会です。
司式はイエズス会の竹内修一神父さまがなさり、福音書の朗読は加藤 豊主任司祭さまです。
ミサの光景の写真をお送りいたします。
1番目の写真は福音書の朗読は加藤 豊主任司祭さまです。朗読は「マルコによる福音」の13章の24節から32節まででした。
2番目の写真は説教をしているイエズス会の竹内修一神父さまです。竹内神父の説教はいつも知的で、しかも分かり易いのです。
3番目の写真はミサで、加藤 豊主任司祭さまが祈っている場面です。
4番目の写真は加藤 豊主任司祭さまがパンと葡萄酒はイエスの体と血に変化するように祈っている場面です。
5番目の写真はイエスの体に変化したパン片を信者へ配っている場面です。

今日は何故、私が カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真をご紹介するのかの理由を説明します。

その理由は、ミサは信者だけの秘密の儀式ではなく、一般に広く公開された儀式だということを知って頂きたいためであす。
信者でなくても誰でも自由に気軽に見学出来るのです。
勿論無料です。ミサの間に献金袋が回って来ますが、何も入れないで隣の人に回せば良いのです。気が向いたら100円位入れても良いのです。
カトリック教会の場所と日曜日のミサの時間は検索すると簡単に出て来ます。
教会に行ったら入り口の受付の人に「見学に来ました」と言って下さい。するとその日のミサの「聖書と典礼」と聖歌集と「お知らせ」をくれます。あとは自由に好きな席に座って見学すれば良いのです。聖歌を一緒に歌うと楽しくなります。
西洋の文化を深く理解するためにはミサの見学が重要だと思います。
カトリック教会の場所と日曜日のミサの時間は検索する手順を示します。
もし仮に貴方が札幌にお住まいなら、まず北海道のカトリック教会一覧を検索します。
札幌の貴方の家の近くの教会を見つけ、そのHPを検索します。
するとミサの時間と地図が分かります。
是非一度ためしに カトリック教会のミサをご覧になっては如何でしょうか?


「現在の芭蕉庵の写真」

2025年06月27日 | 写真
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間住んだ家が芭蕉庵です。

当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場の水番屋に住んでいました。

後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てましたが、これが現在の芭蕉庵につながっています。

その後焼失し、現在のものは第2次大戦後の建築です。
写真は現在の芭蕉庵です。https://b-kanko.jp/spot/269


「秋田県の象潟のご紹介」

2025年06月27日 | 写真
象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟地域にあります。現在は陸地だが、かつては潟湖(入り江)で、潟湖に島々が浮かぶ景勝地でした。
「東の松島 西の象潟」と謳われ、同じく東北地方の景勝地の松島と並び称されていました。 
象潟の島々は、鳥海山の大規模な山体崩壊及び、その土砂が日本海に流れ込んだことによって生じたもので、いわゆる流れ山地形です。  
芭蕉は『おくのほそ道』において「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」(松島は笑っているようで、象潟は憂愁に沈んでいるようだ)と評しましました。
芭蕉は「象潟や 雨に西施が 合歓(ねぶ)の花」という句を象潟で詠んでいます。
『おくのほそ道』の刊行後は、それに影響を受けた文人が多数、象潟を訪れるようになったのです。 
現在も60ほどの島々が水田地帯に点々と残されており、当時のまま九十九島という名称が付けられています。
蚶満寺境内から、象潟の一部には、往復数キロに及ぶ遊歩道が設けられており、島々を巡ることができます。 

写真は現在の秋田県の象潟です。