フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

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カテゴリーは居住地によって分けています

ナポリの汽車での通訳マダム

2011年06月25日 | パリ郊外

そのマダムのニックネームは「ナポリ・ダニエール」という。 

 

彼女との縁は、イタリアの南部の町から汽車に乗り、ナポリ経由でローマに向かう時のナポリまでの列車の中で始まった。

 

3人掛けの向かい合わせの席に、イタリアの少女が3人と彼女がいた。

この3人の娘はイタリア語しかできない。

イタリア人にあまり英語は通じないケースが多い。(特にローマより以南では)

(この点フランス人は最近英語が通じる。というより私よりはるかに英語力がある人が多い。)

 

で、そのとき横にいた当のマダムが通訳してくれたのである。

彼女はフランス人だったが、イタリア語も、英語もできる人だった。

年のころなら60代後半のように見受けられた。

 

ナポリで全員汽車から降りて、別れた。

ナポリ駅で一人のムッシュが彼女を迎えに来ていた。

彼女の名は「ダニエール」、この名はポピュラーであり、私の友達にも他に3人いる。

区別するため彼女に「ナポリ」を冠して「ナポリ・ダニエール」と付けたのだった。

 

帰国後から手紙のやり取りを始め、頻繁ではないが、交信を続けた。

パリ郊外に住んでいるので、フランスに来たら連絡してと言われ、それから二年後

その約束を果たす時が来た。

 

「サンリス」と言うパリの近郊の古い田舎町や「シャンティー城」に連れて行ってくれた。

 

その時、宿泊していたパリの友人の家まで迎えに来てくれた。

 

こういう時私は少し気を使う。

知らないフランス人同士を引き会わせる時、彼らの目に見えない「階級」を考えるからだ。

しかし「ナポリ・ダニエール」は堂々としたマダムであるから、この時宿泊先の家に来てもらっても何ら問題はなかった。

 

宿泊先の友人は、生粋のパリジャンであり、少し古い考えも残ってる人なので、時々気になるが、この時は「ナポリ・ダニエール」も堂々と渡りあえていると言った感じがした。

 

服装も彼女の人格にふさわしい、姿だった。こういう場合、服装も肝心なのだ。

「サンリス」と「シャンティー城」を見物するのがいいというのは宿泊先のムッシュの提案だった。

 

彼女の運転で訪れた「サンリス」と「シャンティー城」は今もちゃんと覚えている。

その後は、手紙のやり取りも、少し御無沙汰しているのが気になってきたこの頃である。


親日家シラクのライバル

2011年06月24日 | パリ13区

私のフランス人の友人の中で、日本人から紹介されたと言うのは、かなりまれである。

そして日仏カップルも二組しか知らない。

 

その人は日本人の友人によって紹介されたムッシュである。

彼は来日40回を超える日本好きである。(シラクといい勝負?)

しかもそのほとんどは一人旅で、ホテルに泊まることはまれで、いわば私のフランス人バージョンのように日本の友人宅をはしごして過ごしている。

                                             

 

奥さんは関東圏の出身らしいが、彼は京都には必ず立ち寄る。

東京や京都大阪の町の中の移動は、もっぱら自転車である。

行ったことがない都道府県は、沖縄県だけと言うから私より日本を知っている。

 

もちろん日本語も堪能だ。

物理学を専攻していたという彼はグランゼコールの出身で、高校の物理の教師であったが、今は退職し自由の身となり、来日回数もさらに増えた。

在職中はバカロレアと言う大学入試判定試験の面接試験も担当していた。

 

しかし、この人はとにかく服装にこだわらない。こんなフランス人は珍しい。

何と上下ジャージスタイルで日本中移動する。(パリで会った時もそうだった)

まだ夏に会ったことはないが、夏はどんないでたちなのか興味がある。

 

食べるものもには全く贅沢をは言わず、リーズナブルなもので平気である。

彼によると日本食も何でも食べるそうで、「ゴキブリ以外は何でも食べます」といつも答える。

 

何が好きかと言うと、骨董だ。

いつだったか我が家に来た時は、その日骨董市で買ったばかりの火鉢や内裏雛とお

雛様、小さい欄間をバッグに入れて提げてきた。

                    

なかなかいいものばかりだった。

朝早く行ったらこんな掘り出し物を手に入れることが出来るようだ。

ただパリに帰ると、残念ながら日本人の奥さんを始め誰も関心がなく、自宅とは別の小さな物置き場を借りていてそこに収納しているとのことだった。

 

また使用済みの電車のカードや日本らしい絵や写真が載ったチラシなども集めているので、私も協力してある程度溜まったら彼にプレゼントしているのである。

 

お金をかけずに旅行する方法を彼からも学んだ。

私の旅行スタイルと違ってカメラを持たない主義の彼は、心と目にその情景をしっかりと焼き付けるかのように静かに眺めている。

 

大忙しの日本人の団体旅行では、目的地に着くとカメラでパチリ、パチリと撮り、実物はよく見ないで、さっさと行ってしまうと別の親日家のムッシュが笑って言ったことがある。 

 

その親日家のムッシュが東大寺に来て大仏殿を訪れ、大仏様を拝んだ後、中門のところまで帰ってきた時、もう一度よく見ておこうと大仏殿をゆっくり振り返り眺めていたのを覚えている。

 

写真を撮って後で眺めて楽しむのもそれはそれでいいことなのだが、写真を撮れば安心してしまい、本物を目に焼き付けるのを忘れてしまうのももったいないことだ

運動会のムービーも然りである。

せっかくの大切な子供の一瞬がファインダー越しというのは残念でならないのは経験済みである。

 

幾人か友人だけでなくフランス人の多くが、日本人のその習性に気がついているらしい。

「目でしっかり見なくてどうするんだ」という指摘は、彼らの「生き方」にさえつながっているような深いことに思える。

 

 

 

 


真面目なジーちゃんとさぼりのルーちゃん 

2011年06月20日 | パリ郊外

 

奈良のお土産屋さんで、偶然に居合わせた二人のマドモアゼル

それがジ○○とル○○であった。

 

7月ごろの暑い時期だったと思う。

ジーちゃんは働きながら学校に行って、日本語を学んでいると言った。

ルーちゃんは現在働いていて、以前に日本語を習っていた。

 

どちらもパリ郊外に住んでいた。

仲良しで二人だけで旅行していた。

 

日本語を上手に話し、人懐こいので、そこだけでの立ち話では物足りなくて、夕方また会うことにした。

初めてできた若いフランス人の友達だ。

 

夕食を済ませた後、彼女らとカラオケに行った。

彼女らは、体を揺すってテンポを取ってそれはもう乗りに乗って歌っていた。

カラオケの経験はフランスではあったようだが、日本では初めてとのこと。 

 帰国後メールのやり取りはほとんど、ジーちゃん(写真右)だけになった。

ジーちゃんは日本語の文章もかなり上手になってきた。

 

時々旅先から絵はがきを送ってくれたり、日本語を交えたメールとクリスマスには写真も添付してくれる。

 

ルーちゃんの方は、SNS(ソーシャル、ネット、ワーキング、サービス)の方に登場している。

だけど直接のメールはあまり来ない。サボリちゃんかな?

 

ジーちゃんの肌は、少し褐色だった。両親の誰かは中南米の出身ではないかなと想像する。

真面目に勉強しているいい子だ。

日本を再訪したいといつも言っているが、若い彼女たちに費用の捻出も簡単なことではないらしい。

日本に来たような気分になるため、日本食を食べに行ったり、時には作ったりしているようだ。

 

対照的に思える性格の二人が、仲良しなのは今でも謎である。

そして3月11日の地震の後で、二人から揃って、「無事か?」「大丈夫か?」と気遣ってメールが来た。

やっぱり優しい、いい子たちだ。

 


御曹司の置手紙

2011年06月19日 | パリ17区

マダムから息子の来日についてのメールが届いた。

 

17歳の息子が、家族と一緒に旅行に来たことはあっても一人旅である。

彼女から彼の滞在についての相談であった。

 

東京は以前家族で泊まったところに一週間すでに予約済みで、「関西で出来れば一週間、ホームステイで、できれば同年代の若者と交流をしたい」と言うことであった。謙虚にも「彼が寝るためのほんの小さなスペースだけ、提供していただけるとありがたい」と添えられていた。

 

知り合いも当たってはみたが、結局狭い我が家に滞在してもらうことしにした。

奈良滞在の後は、有難いことに横浜在住で同年代の男の子を持つ友人が快くホームステイを引き受けてくれた。

また奈良在住の高校生の女の子が一日奈良の案内を申し出てくれた。

それを伝えると、「何と感謝していいかわからないわ。横浜は旅行した時とても素敵な街だと印象に残っている。同年代の日本の女の子と会う機会があるなんて息子はとても喜ぶでしょう」

 

そして彼はやってきた。京都駅での再会だった。

もうすでに一週間東京で滞在し、不安な様子は全く感じられない。

とんかつ弁当を新幹線の中で食べたと言っていたが、軽く食事をした。

いろんな話をする中、彼の話からお母さんのことがほんとに大好きで尊敬していることが感じられた。

                   

 

日本語で話してくれた会話が印象に残っている。

たとえば「お母さんはすごいです。歴史を勉強していました。博識で敵いません。」

「兄はいつもお母さんに似ていると言われますが、僕は小さい時からお父さんに似ていると言われています」とちょっと残念そうに笑った。

でも「両親は日本料理が好きではないので、作ってくれません。それがとても残念です」

 

しかし政治の話になるとちょうどサルコジ大統領が就任して間もないころで、ご両親はサルコジ派。そのせいもあるのだろう。「サルコジはいい大統領だと思います」と言っていた。

今も同じなのか、違う意見になったかまた聞いてみたいところである。

 

姫路城に行った時、昼食を取ったのはお城の近くの神社の中のレストランだった。

照り焼き丼ぶりのような簡単なものだったが、味も良く、「静かな雰囲気でここはほんとにいいレストランです。」といった。フランス人は「静かなレストラン」が好きなのであるが、17歳にしてそういう評価をしたのが印象に残った。

 

また女子高生に奈良を案内してもらい、駅に迎えに行ったところ、ちょうど折り鶴を教えてもらっていて、彼女とのひとときを名残惜しむように、「もうちょっといいですか?」という。

実はパリにはガールフレンドがいるのだが、そこはフランス人、女の子との楽しい時間はなかなか別れづらいらしい。

もちろんそんな気持ちに水を差すような野暮なことはしないで、待った。

 

彼はカラオケでも日本語でアニメの主題歌なども歌うそうだが、彼の家族はみなクラシック音楽を好むと言う。

すぐ上のお兄さんもそうだ。

しかし彼はエディット・ピアフも好きで、「水に流して」は特にお気に入りだと言っていた。

お母さんからしてみれば、いわばちょっと「異端児」と言えるかもしれないが、両親に愛情豊かに育てられたことは間違いない。

 

奈良を旅立つ日、京都まで送って行った。

そのときも少し寂しさを覚えたが、帰宅後彼の使っていた部屋を片付けようとしたら、何やら忘れ物?

来たときにも小さなお土産をいただいたのだが、そこにはひとつ、また小さなお土産とともに「ありがとうございました」と書かれたメモが残されていた。

 

フランスの17歳の男の子でもこんなことができるのか

私の涙腺は緩み、いつまでも心に残っている。

ご両親のしつけの良さを感じる出来ことであった。

 

これに教えられ、私も向こうに行ったとき置手紙をするようにしている。 


バイオリニストと祇園の頑固爺さん

2011年06月19日 | パリ16区

 

 

京都の四条通りの祇園あたりになると思うが、商店をのぞきながら歩いていて、とある骨董品店の前でこのマダムと出会った。

 

私と同じようにショーケースを覗いていて、自然に会話になった。

何でもパリ管弦楽団に属しているバイオリニストだそうで、京都での演奏会に来たということだ。

京都とパリは姉妹都市だから、そういう交流もあるのだろう。

 

音楽家らしい何とも言えない雰囲気の美しい人で、私の友人の中でもこのようなタイプの人はいない。

 

その骨董品店は半分戸を閉めており、営業しているのかしていないのか良くわからいような状態だった。

それで私が声をかけてみると、主人がいた。老人であった。

 

私が珍しい骨董品についてこれは何ですかなどと聞いている間に、彼女は小さな古い缶を見つけた。

 

彼女が分けてほしいと言っていると言うと、主人は首を横に振り、ここからこっちのものは売らないものだという。それにそれは売り物にはならない値打ちのないものだという。それでもいいと彼女は言ったが、ガンとしてそういうので、彼女はあきらめた。

 

これが京都の「イケズ」なのか、それとも他にわけがあるのか、どうして売らないのかさっぱり分からなかった。

 

彼女との立ち話で、その年カルカッソンヌやリヨンを訪れたことを話すと「なんという偶然なの!!私はリヨンの生まれで、昨年セカンドハウスを買ったのはカルカッソンヌなのよ」と大層喜んだ

そして、彼女とは店の前で写真を撮り、アドレスを交換し別れた。

 

後日、再度この店に行きあの缶を見つけ、買って彼女に送ってやろうと思って交渉したが、老人はやはり首を横に振って同じ返事だった。

古い抹茶を入れる缶だった。中に固くなり色あせた抹茶が残っていた。

 

フランス人?ああフランス人か、こんなんよう欲しがるんや」とつまらない物に見えるものでも、フランス人が興味を持ち貴重なものと思うことも承知のようであった。

 

そのことを彼女にメールしたが、「有難う、でももうあの缶は諦めたからいいの。それよりあなたが再度行ってくれたことを想像するだけで嬉しい」という返事だった。

 

フランスの骨董市でもこの種の小さな古い缶を売っているのを見たことがある。

祇園の骨董店の前を通るたびその時のことを思い出していたが、数年前からこの店はなくなってしまった。

 

あの頑固おじさんはどうなったのか、なぜあの缶を売らなかったのか、今でも少し気になるところである。

 

バイオリニストとはメールをたまに交換しているが、向こうが忙しいのかそう頻繁ではない。

 

またきっと京都の演奏にやって来るに違いない。

その時、再会しよう。

あの骨董店と頑固おじさんのことを覚えているだろう。

そして店がなくなったと聞いたら残念がるだろうな。


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