フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

役に立っていた翻訳

2012年09月19日 | ノルマンディー

午後に東の崖に登ることになったがその前に海岸でランチすることになった。ヴェルジニのアパルトマンの一階にパン屋さんがあって、そこでサンドイッチを買った。 

パンに挟むものもトッピング出来た。そのサンドイッチに掛けるソースも選べるのだが、そのソースの一つに「SAMOURAI」というのがあった。もちろんそれにしたが、ややスパイスのきいた辛目のソースだった。

フランスでの日本人気は、こんなところにも現れている。 

海岸の石の浜にヴィルジニガ持ってきたバスタオルを敷き、その上に座った。バスタオルが海岸の石ころと同じ模様なので、てっきりこの辺りのお土産屋さんで売っていると思ったが、聞いてみると意外にもヴィルジニがパリで買ったのだそうだ。それにしてもぴったりだった。

食事後、彼女はそこで器用に服を脱ぎ、海で泳いだ。水泳の用意はしてこなかった私は、波打ち際で足をつけた程度だったが、実に気持ちよかった。

朝から晩まで一日中海に入っている女性がこの町に居て、「人魚」と呼ばれているということだった。妙齢のマダムなのであるが、海ではなく街を歩いているところを見かけた。 

その後いよいよ東の崖の上に登って行った。

途中静かな住宅街もあった。

かなり上ったところに、養護老人ホームのような施設もあった。

登りきると予想に反し、西の丘とは違って平らな広い丘であることに気がついた。左右が広い放牧場だったり、一面の麦畑だったりして、その中の真っ直ぐな一本道をずっと東に歩いた。向こうから大きな農業用の車が来たりした。

 

かなり歩いてから左折し、海岸の崖の上まで出た。そこからまた海岸の崖に沿って西に向かった。 

やがて西の崖の上にまで戻り、そこにある記念碑を見た。

ナンジェリーとコリーと言う人のもので、彼等はリンドバーグの大西洋横断に先立つこと数ヶ月前に、パリからニューヨークへ飛び立ち、その時この海岸の上からアメリカに向かった。そして消息を絶ったそうだ。

彼等の勇気をたたえてここのモニュメントがあり、彼等に名がついた博物館もあった。

 

当日その博物館では、エトルタ市の主催でこの海岸の美しい景色を映した写真展が開かれていた。実は日本にいるときにヴィルジニから、この写真展を解説したパンフレットの日本語訳を頼まれていて、原文は芸術に関することなので、結構いわゆる文学的表現が多く、訳すのに苦労した。

 

知り合いの日本語のできるフランス人(ケバちゃん)や、日本語を勉強中のフランス人にメールで原文と私の訳をを送り添削を求めたところ、それぞれ丁寧に手を入れて返してくれた。

 

ケバちゃんは、私の訳した日本語を理解したうえで訂正してくれ、その説明も添えられていて彼女の日本語能力の高さを改めて確認したのだった。

日本語がほぼ完璧な、今や来日50回を超えるこの人にも頼んだが、彼は「日本語に訳するのはあなたの守備範囲でしょ」と一蹴されたのだった。

 

今は亡き、パリのシャンソニエ「ラバン・アジール」の名ピアニスト、アンリ・モルガンもその一人だった。彼は日本語を習っていた先生にまで確認してくれていたので、訳としては完ぺきだった。が、ここはやはりフランス人による訂正を選択させてもらうことにしたのである。

 

彼等の協力のおかげで何とか訳して送っておいたのだが、この日その写真展に行ってみると多くの外国語のパンフレットの中に、ちゃんと日本語のパンフレットが印刷されて置かれていた。お役に立てて嬉しかったし、懐かしい感じがした。

近くには小さな教会もあった。

登る時見た老人ホームの人達が車椅子で来て、横に並んで日向ぼっこをしながら、海岸を見下ろしていた。

東の崖の上から海岸を見る。

この後は崖を下り、これもエトルタ市が主催している絵画展にも行くのだが、次の時に書くことにする。

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