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世界の覚書

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目標はリテラシーの高度化ではない

2007年01月31日 | 文化・創作・メディア
404 Blog Not Found:リテラシーに「期待」してはいけない

なるほど、TVというのは、理解のために必要なリテラシー能力が最も低いメディアである。映画だって中学生レベルで理解できるように作るのがハリウッド流だが、テレビは、出演者がいて、フレンドリーに親しみやすく話しかけ、ビジュアルにシンプルに説明するものだ。テレビはリテラシーを要求するのではなく、リテラシーを必要としないメディアとして発達したのだ。

しかしDanさんは次のようにも言う。
TVの役割というのは、そもそも視聴者のリテラシーを高めることにあったのではないか。
それは違うと思う。そもそも放送は「大衆としての国民」と「政府の政策を支持する世論」を作り出すための装置として発達した。大量の情報提供は、知識の平準化をもたらし、「世論」というものを近代的な大規模社会において可能にした。そういう機能があるから、放送は政府の監督下におかれた。放送のパワーを放置できなかったし、それくらいなら政府自ら(放送への)影響力を留保しておいた方がいい。

世論を作り出す機能は、政府だけでなく、大衆商品を販売する企業にも、有利な世論、商品の購買やブランドイメージを高める装置として活用された。必要とされるのは、リテラシーの高度化ではなく、影響される(操作可能な)大衆だ。もちろん、政府としては、あまりに流れすぎても困るから、何が「正しい」とか、何が「道徳的」であるとかにも、こだわりを残す。つまり、リテラシーがあまりにも無い状態も困る。中間に、リテラシーのちょうど良い加減があるのだ。あまりにもリテラシーが高すぎたら、「占い」コーナーは絶滅するし、根拠のない「不安」が減れば、不安をネタにする商売の大半が立ち行かなくなる。そんな事では、景気を悪くしかねない。

というわけで、放送行政には、規制と放置が混在していると見るべきだろう。

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1 コメント

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Unknown (まる)
2007-01-31 10:32:06
禿同。
>「大衆としての国民」と「政府の政策を支持する世論」
だからこそ地デジにこだわるのだね。

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